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■11連載コラム 阿寒平太の世界雑記

 
 「阿寒 平太の世界雑記」
               by 阿寒 平太
(この項は、新しいものを上に掲載しています。)

□15 SEKAI雑記の10 丸木舟   


 皆さん、丸木舟と言うと縄文時代か、それ以前の遥か昔の話と思われるのでは?ところが、世界の色々な国では今でも実際に作られ、使われており、上に掲載した写真のようにデザインも機能美に溢れ洗練されています。今回は、日本の丸木舟の歴史や、丸木舟の大型化の過程と、竜骨を持つ木造船の造船過程を紹介しながら、船の造船技術についてご紹介します。


写真1 インドネシアの丸木舟

 日本での先史時代の丸木舟の発見例は200例ほどで、その分布は関東地方で150例ちかくあり、そのうち100例が千葉県で発見されています。千葉県多古町の遺跡からは、紀元前3500年頃(縄文時代前期)のムクノキの胴をくり抜いてつくった丸木舟が見つかっています。多くの例を占める単材モノコック構造の丸木舟は、一本の丸太を刳り抜いて作られるので、木のサイズで丸木舟の大きさは決まっていますが、古墳時代と推定される全長11.7mのクスノキの丸木舟など10mを超す大きなものも見つかっています。また、丸木舟でも単材だけではなく前後に単材を繋いだもの、左右に継いだものなど複合材(重木(おもき)と言います。) の丸木舟もあります。現在、日本で唯一作られ続けている丸木舟も複合材で製作されています。

 島根県松江市美保関町の美保神社の神事に使われる諸手船(もろたぶね)と言われる丸木舟は、昔からの伝承により40年に一度作りかえられ、1940年及び1978年に造られたものが保管されています。これらの船はモミの大木を刳り抜いた部材を左右に継いだ複合部材の丸木舟で、その製造方法は木造和船の初源的なものと言われていますが、この船も元々は単材で作られていたと言われています。

 この神事は、大国主命(おおくにぬしのみこと)が国譲りの意向を確認するため、美保関で釣りをしていた事代主命(ゑびすさま)を諸手船で迎えに行ったという故事にちなみ、毎年12月3日に行なわれます。美保神社から漕ぎだした2槽の丸木舟が対岸の客人社(まろうとしゃ)の下を折り返すと岸まで競争し、到着後は櫂(かい)で激しく海水を掛け合います。その船は、長さは6.6m、最も幅の広い部分で1.12m、その深さは51cmと、大きなものです。

 上に掲載している写真1の丸木舟は、インドネシアのスマトラ島北西にあるシムルー島で使われている単材丸木舟です。実に細かな所までも刳り抜いていて機能美にあふれた美しい船です。人が座るコックピットの板(soleソール)の受け部分も綺麗に刳り残しています。

 下の写真2は丸木舟の舷側に波除板を取りつけ、船を深くしている写真です。この舷側板により丸木舟が大型化していきます。


写真2 船大工がモノコックの丸木舟の舷側top-sideを高くしている

 下の写真3は舷側を高くし、エンジンを取りつけた丸木舟のスクリュー部分の写真です。舷側を高くする事でエンジンの荷重や、高速航行で生じる高い波の問題も解決しています。帆による航行が考えられた時点で既にこの改造方法は取り入れられていたと考えられています。


写真3 エンジンを取りつけた丸木舟のスクリュー部分

 以下の写真はアフリカのスーダン国のナイル川に面する造船所での木造船の製作過程の写真です。電気による動力は全くなく、全て手作業ですが驚くほど素晴らしい曲線の船が出来あがって行きます。


写真4 船体の板を大きな丸太から挽きだしている

 下の写真5は竜骨の部分です。丸木舟の船体部分を変化させ、大型化した船体の曲線に会うように削り出し細くして、竜骨に変化したと考えられています。

 写真6は竜骨から徐々に外板を取りつけている写真です。何のフレームもない状態で綺麗な曲線で外板が伸びて行きます。


写真5 竜骨を船台?に据え付けた状態


写真6 竜骨から両側に伸びて行く外板の状態

 外板はそれぞれ大きな手製の船釘で斜めに固定されていき、外板どうしの継ぎ目には布が詰められ、浸水を防ぎますが、それも完全とは言えず浮かべている間は、常に小さな桶で水をかき出していました。下の写真7は外板の継ぎ目ふさぎの作業で外板の繋ぎ方法が判ります。また、両舷側を繋いでいる梁の影が見えます。この船は3本の梁が両舷側を結んでいました。


写真7 船郭の防水作業、布を隙間に埋めている

下の写真8及び写真9は完成した船と進水式の様子です。進水式と言っても大勢でコロを使いながら、水辺まで運び、浮かべるだけです。浮かべて係留して水圧がかかった状態で、帆や甲板などの色々な艤装を行います。


写真8 完成した船体


写真9 進水式

このように色々な木造の素晴らしい造船技術を見ると、はるか太古から人が船を造る際の基本的な技術は、そんなに違いはないのかなとも思います。

 現代の船は、船体の材料が木造から鉄、ガラス繊維や炭素鋼繊維により補強された樹脂に変化し、それにより竜骨がない船体構造に変化してきています。この変化は、3000年以上の船の歴史の中で、ほんのわずか100年に満たない短い期間で起こり、今も変化し続けています。今後どのように変化していくのか楽しみです。

  【15 SEKAI雑記の10 おわり】





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□14 SEKAI雑記の9 肉食の文化   

注)下部に羊の丸焼きの写真があります。ご注意ください。

 ボスニア・ヘルツェゴビナで仕事をしている時に、「羊の丸焼き」と言う料理に遭遇しました。今回は、日本の食肉文化と、私が遭遇した海外の「肉食文化」について少しお話します。

 縄文時代は狩猟文化で肉が主食と思われがちですが、主食はドングリで、肉は副食の一部だったと推測されています。縄文時代は、温暖化が進み海面の上昇(縄文海進)により陸の食料だけでなく、漁・貝・藻の採集も行われ、豊かな食生活が営まれていました。本州中部以北の日本列島東部には、ナラ、クルミ、クリ、トチなどの温帯的な落葉広葉樹林が、東海から九州に至る列島西部には、カシ、シイなどの暖帯的な照葉樹林が分布していましたが、列島東部の落葉広葉樹林のほうが狩猟動物、木の実は豊富で、魚漁も発達し、人口も列島西部と比べて圧倒的に多かったと言われています。数千年続いた縄文時代末期に、列島西部では、雑穀(アワ、ヒエ、モロコシ、ソバ)を主要作物とする農業が行われる様に成りましたが、列島東部を含めて広く肉食は続いていました。

 仏教伝播以降の天武4年(675年)天武天皇によって「殺生禁断令」が出され、「牛、馬、犬、鶏、猿」の肉を食べる事が禁じられましたが、猪、熊、雉などは含まれていませんし、禁止期間は毎年4月から9月までの農耕期間に期間が限られていました。また、701年(大宝元年8月3日)の大宝律令には「死亡牛馬処理」に関する項があり、「官有牛馬が乗用あるいは使役中に死亡または病死した場合は、皮及び肉はその役所で売却して公の費用に充てよ」の旨が書かれていました。

 『庭訓往来(ていきんおうらい)』(南北朝時代末期から室町時代前期の成立とされる往復書簡集で、江戸時代でも寺子屋で習字や読本として使用された初級の教科書)の5月返状に「豕焼皮(いのこやきがわ)」という脂肪がのったイノシシの皮を焼いた料理の名前や料理材料として干鳥、干兎、干鹿などの名前が出ています。

 天明(1781年~1788年)から嘉永(1848年~1854年)にかけて、彦根城主から将軍へ、寒中見舞として牛肉の味噌漬が樽で献上されていたとの記録が残され、享保3(1718)年には江戸両国に「豊田屋」、通称「ももんじ屋」という獣肉専門店が開店しています。

 しかし、仏教の影響で、獣肉食、獣肉が「穢れ」とされ、屠殺人・獣肉解体人・死体処理人・皮製造職人などを穢多・非人として穢れ、差別対象としてきた事も事実です。しかし、猪肉を.牡丹・.山鯨、馬肉を桜、鹿肉を紅葉、鶏肉をかしわ、と隠語で呼び「薬喰い」と称して一般の人も食していたと言うのも事実です。

 『しづしづと 五徳(ごとく)据えたり 薬喰(くすりぐい)』  与謝蕪村
このタテマエとホンネの違いは、明治5(1872)年1月に明治天皇が公に牛肉を試食した時を境に無くなり、肉食を誰に憚ることなく出来るようになりましたが、今でも隠語は生きているようです。

 肉の食べ方は色々ありますが、その中で「丸焼き」と言う豪快な料理方法があります。この「丸焼き」と言う肉の食べ方は何時頃からの物でしょうか?少なくとも火は、炎を上げる火ではなく、炭火或いは輻射熱が豊富に使えなければ、この「丸焼き」と言う料理方法はありません。この観点から日常にこの料理方法が使われたのは人間が豊かになってからのことでしょう。ヨーロッパの様々な宮廷料理の記述の中にも牛、豚、鹿、七面鳥などの丸焼きは記載されており、客の好む料理でしたが、やはり火を贅沢に使った料理として、余り通常は食べられない料理としてもてはやされたようです。

 ボスニア・ヘルツェゴビナで仕事をした際に、建設業者からプロジェクトの打ち上げパーティーに招待されました。建設業者の経営陣、技術者、その家族など合わせて60人位が参加した大きなパーティーでしたが、始まった時間は午前中、終わったのは夜中で、延々12時間に亘るパーティーですが、ずっと飲み続けているわけではなくサッカー、バレーや水泳をしながら、時々ドンッと据えられている生ビールを飲んだり、昼寝したりしながら時間を過ごします。その時に「ヒツジの丸焼き」に初めて遭遇しました。

 まず、羊の皮を剥ぎ、内臓を抜き、丸焼き用のシャフトを通します。その後で皮の内側の脂身のネットで包みます。


写真 皮を剥いだ羊


写真 脂身のネットを被せる

丸焼き用の炉は単に屋根がある大きな暖炉のような構造ですが、薪が燃える熱で後ろのレンガ壁を熱し、炎とそのレンガ壁の輻射熱でじっくり焼き上げる構造に成っています。


写真 丸焼きの炉


写真 輻射熱でじっくりと焼く

ほぼ焼きあがる状態まで、6時間ぐらい掛っています。


写真 ほぼ焼き上がった

「ヒツジの丸焼き」が焼きあがり、皆がそろっている食卓に行くと、どん!と目の前に丸焼き羊の頭が熟したトマトを口に頬張って置かれていました。


写真 主賓の前に出された料理

確かに「ヒツジの丸焼き」は食べると実に美味しいのですが、目の前でトマトを頬張った目で見つめられると食べた気がせず、早々に移動してもらいましたが、我々日本人の感覚からは遠い食べ物と感じました。




  【14 SEKAI雑記の9 おわり】





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□13 SEKAI雑記の8 蒸留酒ラキヤ   


 今回はお酒について書きましょう。『酒なんて書くものじゃないの!酒は呑むもの!書いた物読んで肴に成るか?』と既に酔ったご仁に言われるかもしれません。このご意見に私も全く賛同。ただ、HP管理者が原稿出せ、原稿出せとせっつくものですから、仕方なく呑んでいる酒を中断して・・・・。

 さて、「酒は全て醸造酒です」と書くと、「お前、酔っ払っているな。酒は醸造酒もあり、蒸留酒もある、これが常識だろう。」と言われるかもしれませんが、これは本当です。

 特にことさら書く事ではありませんが、醸造法にはワインのように果汁に酵母を添加して発酵・熟成させる直接醸造法と、清酒やビールのように原料となる穀物原料の米や麦芽を一度糖化させてから発酵させる糖化醸造法があります。これらのエチルアルコールを含む飲料を作る過程を醸造と言うので、全ての酒は醸造酒だと言えます。

 酒の原料は多種多様ですが、糖分、もしくは糖分に転化されうるデンプンを含む物は、果物、穀物、樹木の枝葉、樹皮を含め全て酒の原料に成ります。

 話が飛びますが、アラビア半島のサウジアラビア国の南西にイエメンと言う国があります。遥か昔ですが、美人で有名なシバの女王の国(紀元前10世紀頃)があった所です。今でもその頃作られたと言うダムの一部が残っており現在は、その内側にアメリカからの援助で作られたダムが満々と水を湛えています。又、イエメンはアラブ人、ヘブライ人やフェニキア人などのセム族の故郷でもあります。
 イスラム教の国ですから勿論、酒は禁じられていますがその代わりに「カート」と呼ばれる葉を噛む習慣があります。この木は、東アフリカとアラビア半島の熱帯に自生するお茶の木に似たような葉をもつニシキギ科の常緑樹の一種で、葉が付いている小枝を束ねて売っています。一説では、これは非常に原始的な酒だと言われています。

 若葉を選び、そのまま口の中で噛んで大きな飴玉を口に含んだように口の中で丸め、葉っぱから出てくるエキスを飲みます。このエキスには、軽い興奮作用を起こす成分(覚醒作用をもたらすアルカロイドの一種カチノン)が含まれており、イエメン以外のアラブ諸国ではカートは麻薬の一種として禁止されています。口の中の適切な温度で長時間噛まれる事で、エキスが口の中で発酵し弱いアルコールに転化し、覚醒成分と混ざり酒の代わりとなっていると言われています。ソマリアでもカートは流通しており、ソマリア沖の海賊の身代金の一部がカートで支払われたこともあるそうです。(イエメンで仕事をした時に、私も噛んでみましたが、青臭いだけで美味くもなんともなく勿論、酔う事もありませんでしたが、酒やコーヒーなど刺激物を飲んでいるとか酔わないそうです。)

 南米・アジア・アフリカのごく一部では、各種穀物を口に入れ噛み砕いた後、瓶や甕に吐き出し発酵を待つという、低アルコールながら原始的な「口噛み酒」と言う酒造法が有史以前から現在まで行われているそうです。古代日本でも巫女がその役を務め「醸す」の語源となっていると言う説があるそうです。

 さて、醸造で出来た「アルコール」を含んだ水を一度蒸発させ、後で冷やして凝縮させ、沸点の異なる成分「アルコール」を水から分離する作業が蒸留です。水の沸点は100℃、アルコールの沸点は約78℃ですので醸造した液体を、100℃以下78℃以上に沸かすとアルコールだけが蒸発し、その蒸気を冷やすと蒸留酒が出来あがります。ウイスキーとウォッカは穀物の醸造酒を蒸留したもの、ブランデーはワインを蒸留したものですし、焼酎はご存じのように米、芋、麦など様々な物の醸造酒を蒸留したものです。

 この蒸留という過程が実に簡潔明瞭に判る単純な装置で出来た、実に美味い蒸留酒ラキヤをボスニア・ヘルツェゴビナで呑みました。(蒸留装置の写真参照)


写真 ラキヤの蒸留装置1


写真 ラキヤの蒸留装置2

 ボスニア・ヘルツェゴビナの家庭の庭には、洋ナシ、オレンジ、ブドウ、リンゴなど様々な果物の木が植わっています。この果物を秋に収穫し、潰して冬まで樽で貯蔵します。潰すと言っても殆どが足で踏みつけていました。この踏みつけた物をただ貯蔵するだけで何もしません。貯蔵している間に、樽やその家の食料庫に住み付いている酵母菌がじっくりと発酵作業をしてアルコールを作って行きます。ボスニア・ヘルツェゴビナの冬は寒いのでそれほど腐造や変調は起きないのでしょう。

 車で引いてきた蒸留装置を家の前に据え、手前の釜に貯蔵していた液体を入れ下から薪を焚いて沸かします。アルコールの蒸気は斜めの管を通って後ろの凝縮釜に行き冷やされて、蒸留酒となって出てきます。この作業は装置を所有している専門業者が行うそうですが、その対価は出てきた蒸留酒の1割と言う事で決まっているそうです。冬の2月から3月頃に各家を廻り蒸留酒作りを請け負って移動していきますが、据え付けから蒸留完了までは量にもよりますが数時間で済みますので、この1割と言うのもそれほど少ない対価ではないのでしょう。沸かす為に使う薪と凝縮に使う水は、各家庭持ちです。

 同じ果物を使った蒸留酒でも、味も香りも様々です。各家に住みついた酵母菌は同じではありませんので出来あがった蒸留酒も違った味と香りになります。

 酵母菌もそれほど管理されたものではなく働く力も弱いので、一度の蒸留ではそれほどアルコール度の強い酒はできませんが、蒸留した酒を再度、釜に入れ沸騰させると言う事を繰り返すとアルコール度が徐々に高まり90度位のものすごい酒が出来ます。

 ボスニア・ヘルツェゴビナで仕事をしていた時、国中を廻りその土地、土地で色々な自家製ラキヤを楽しみました。なんと、素晴らしき時を過ごした事か。

あな醜(みにく)、賢(さか)しらをすと、酒飲まぬ、人をよく見ば、猿(さる)にかも似む
万葉集:大伴旅人(おおとものたびと)
(ああ醜い。賢そうにして酒を飲まない人を、よくよくみたら、猿(さる)に似ているようだ。)

(大伴旅人は「大宰帥(だざいのそち)大伴卿(おおともきょう)」と言われ、出世街道なれの果ての大宰府長官の時に、酒で憂さを晴らしていた時の歌なのでしょう。)




  【13 SEKAI雑記の8 おわり】





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□12 SEKAI雑記の7
血についての考え方 
  


 タブー(Taboo)と言う言葉があります。「社会生活の中で何をしてはならない」と言う行動を規制する規範を表しますが、元々はポリネシア語のTabuが語源で、ジェームス・クックが、その旅行記でポリネシアの風習を紹介する際に使い広まった言葉で、日本では「禁忌(きんき)」と訳されています。

 この禁忌の中に「血」と言う物もあげられます。しかし、この「血」は時には死との繋がりから「穢れ(けがれ)」として忌避され、時には「血の繋がり」や「子孫繁栄・生命力」など生命を象徴し、日本語としても単に「禁忌」の意味だけではなく反対の「好ましい物・清浄」と言う意味も持ち両義性があります。世界の国々でも「血」についての考え方は様々です。

 キリスト教では、イエスの最後の晩餐での「パンとワイン」を「肉と血」になぞらえていて、我々日本人とは違った思いを「血」について持っています。

 今から20年以上前、私がエジプトに住んでいた際、借りていたアパートの部屋の模様替えの為に大きな本棚を動かした時、丁度本棚のうしろの壁に茶色の手の痕が無数についていました。会社のスタッフに聞くと、オーナーがその部屋が災難にも会わず使い続けられるようにと、生贄の血を壁につけたものとの事。「生贄の血と言うのは何なんだ?」と聞くと、通常は羊か牛との事でしたが、何か気味が悪く、模様替えは中止。

 いすゞ自動車とGMとのエジプト合弁会社の工場が完成し、1号車がラインから出てきた際に、その車体全体も真っ赤な手形で覆われていました。これも生贄の牛の血でした。

 エジプトの首都カイロは、エジプト4000年の歴史を展示するカイロ博物館でも有名ですが、スエズ運河の開通を祝って1869年にカイロ・オペラハウスが作られた事でも有名です。それ以来、カイロは中近東、アフリカでの音楽文化の中心となりましたが、残念ながら1971年に焼失してしまいました。1988年に日本から開発援助の一環として新しいオペラハウスが贈られました。当時、ヨーロッパ諸国では開発援助でオペラハウスを贈ったと言う事で日本の文化度を高く評価していました。

 さて、この日本の文化度の高さを示すオペラハウスの地鎮祭での出来事です。建設事務所の脇の空き地に1頭の大きな牛が連れてこられ、イスラム教の導師がコーランを牛の前で唱え、すぐさま牛の頸動脈が切られると、牛は徐々に前足を折り、跪いて横倒しに成って行きました。廻りは血だらけで、私が見たのはそこまでで、事務所に入ってしまいました。暫くして、秘書の女性が一緒に写真を撮ろうと呼びに来て外に出てみると、事務所の女性達が、血が滴る牛の首の角をむんずと掴み、私と一緒に写真を撮ろうと並んでいました。

 日本的な感覚では、見るもおぞましいと言う所ですが、この頃のエジプトでは動物の屠殺を見ると言うのはそれほど稀な事ではありませんでした。ラマダン明けの休暇の前には、家の前の道路で羊を殺して、皮をはぐと言う血だらけの作業が当たり前のように見られました。さすがに今ではあまりにも残酷と言う批判の為か、公衆が見る事が出来る道路では禁止に成りましたが、エジプトの人々にとっては動物の血を見たり、触ったりと言う事は、日本的な穢れ(けがれ)と言う事とは結びつきません。動物を殺し、その捧げられた尊い命の血によって災いから守られると言う感覚です。

 エジプトと同じ様に国民の大部分がイスラム教徒であるインドネシアでは、この「血」に対する感覚が全く違います。プロジェクトの開始、完成の時に、牛、鶏、羊などを殺してその成功を祈願したり、祝ったりすることはエジプトと同じですが、その血に触ることは「穢れ」となっており、牛や羊などを殺した際には、その首は土に埋めています。

 さて、日本でも古くは生贄の儀式があり、今に残る巨石の中には生贄の血を流したという説がある溝が残るものもあります。『日本書紀』には、642年に牛馬を生贄にしたと言う記録があり、実際に生贄の牛の頭骨が出土しています。又、日本神話では、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の生贄として女神である奇稲田姫(クシナダヒメ)が奉げられようとした時、素戔男尊(スサノオノミコト)がオロチを退治し、奇稲田姫と結ばれると言う話がありますが、これは生贄の行事を廃止させたことを神話化したとも言われています。

 『古事記』中で宮簀媛(ミヤズヒメ)と結婚した日本武尊(ヤマトタケル)が、宴席でミヤズヒメの衣服の裾に月経の血がついてるのに気づいて、「襲(おすひ)に裾に 月立ちにけり」と月経を新月になぞらえた歌をよみ、それに対してミヤズヒメは「あなたを待ちくたびれて月も上ってしまった」といった意味の歌をさらりとよみ返しています。さらにこのあと二人は褥を共にもしています。(襲(おすひ)は、頭から被って衣類の上を覆うもの。)

 日本の古い時代では、「血」その物が不浄と言う考えはありませんでした。民間の宗教的儀礼や慣習では、産血も経血も、一時的な穢れに過ぎず、その時々にお籠りやお祓いによって、その穢れを清めることはできました。しかし、女性を不浄のものと見なす考え方を、仏教経典から挙げてみると、「世には不浄で多くの迷惑があるが、女人の身の性質よりはなはだしきはなし。」(『仏本行集経』「捨官出家品」)、「女人は〈清らかな行い〉の汚れであり、人々はこれに耽溺する」(『相応部経典』)など、血と母性を穢れとし、女性の本性を救済しがたい不浄性にみた仏教教説は、穢れ、不浄を本性とする存在へと女性を変質させてしまいました。

 死、出産、血液などが穢れているとする観念は元々ヒンドゥー教のもので、同じくインドで生まれた仏教にもこの思想が流入しました。特に、平安時代に日本に多く伝わった平安仏教は、この思想を持つものが多かったため、穢れ観念は京都を中心に日本全国へと広がって行きました。

 この様に日本では、仏教伝来により「血」に対する考え方は変化して行きましたが、世界の国々でも、その国の神話や宗教などによりそれぞれ違った考え方をしており、他の国を理解しようとする際には、一つの基準では計れない多様性に対する理解が必要だと感じています。


  【12 SEKAI雑記の7 おわり】




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□11 SEKAI雑記の6
トーチカと言う戦跡 
  


 皆さん、「トーチカ」と言う言葉をご存知ですか?もともとは、「ロシア語точка トーチュカ」ですが、主に鉄筋コンクリート製の防御陣地の事です。飛行機からの爆撃や、野砲や戦車による砲弾攻撃にも耐えられるように、分厚いコンクリートで覆われ、歩兵や戦車による攻撃を撃退するため小さな窓があり、色々な兵器で反撃できるようになっています。

 一般的な形は、攻撃の弾の力を分散しやすいように半円になっている物が多いのですが、時には一般の民家に似せて屋根をつけ、窓を描いて偽装する事もありました。

 バルカン半島の突端のギリシャのすぐ北西にアルバニアという国があります。そこに医療施設の調査に行った時、峠を越えて視界が開け広い農地が見えた時、クラゲのような半円をした物が、畑の中に何列にもわたって見えました。それがトーチカでした。

 すぐ向こうがイタリア半島の靴の踵と言うアドリア海の入口に面する風光明美な保養地サランダで快適な時を過ごした後に、この醜悪な人工物に出会った時は、いささかいやな気分になりました。


写真 農地に何列にも連なるトーチカの列(白い点々がトーチカ)


写真 農地の中のトーチカ、ギリシャ国境から12km位の所

 トーチカは、入り口が攻撃されにくい自軍方向についており、敵が攻めてくる方向に攻撃用の窓が付いています。平原に無数に散らばっているこれらのトーチカの防御方向はギリシャ方向でした。

 1976年6月の或る朝突然、アルバニア国民に総動員令が発令されました、その頃、まだ女子高校生だった私の仕事相手も、それから何カ月も学校で学ぶ事もなく毎日、トーチカ造りをしたそうです。当時、60万個のトーチカが作られたと言われています。その当時、アルバニアは社会主義をとり、隣国のユーゴスラビアのチトー大統領、ソ連、近隣諸国とも対立し鎖国状態でした。

 これらのトーチカは、実際には使われる事はありませんでしたが、世界的な孤立状態から生まれた、脅迫観念に追い立てられて作られた膨大な数の戦跡です。

 私は、昨年からこの3月までインドネシアのシムルー島と言う所で、仕事をしておりました。インド洋に広く津波の被害が及んだ2004年12月26日のスマトラ島沖地震の震源地に一番近い島です。日本から首都のJakartaまで7時間かけて飛び、そこで乗り継いでスマトラ島(日本の面積に2倍くらいの大きな島)の州都Medanに約2時間掛けて飛び、そこからは12人乗りのセスナ機に乗り換えて1時間でやっとシムルー島に着きます。

 そこは小さな島ですが、インドネシアで一番早く鉄道と飛行場が出来た島とされています。作ったのは、大東亜戦争当時の日本軍です。今のジェット機の時代でもこれだけかかる遠い島に、昔はどのくらい時間をかけて行ったのでしょうか。鉱山がありその鉱石積み出し用に山からSinabangと言う港まで鉄道が引かれていたそうです。勿論、飛行場は戦略的な意味があったのでしょう。
この島にもトーチカがあります。島の南西海岸に3か所ありました。多分、当時はもっと多かったのでしょう。


写真 全体は5角形に柄が付いているような形で左側の横長の開口が迎撃窓でしょう

 ここでどのような戦闘があったのかは知りませんが、故国から遠く離れた赤道直下で、トーチカの中で敵を迎え撃つ心境はどのようなものだったのでしょう。
鉄道、飛行場、トーチカなど多くの戦闘目的の施設が造られた際、現地の人たちも徴用され働いた事でしょう。
私はこの島に、合計で4カ月程滞在しましたが、日本人のお墓のようなものは見つかりませんでした。せめてこの島では戦闘などなく、死傷した日本兵がいない事を祈ります。遥か昔の日本軍の戦跡があるこの島の、地震被害の救済に日本から出向いていると言う事に何か因縁めいたものを感じます。

  【11 SEKAI雑記の6 おわり】




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□10 NOZOKIMI散歩の4
神仏混淆の素晴らしき日本の祭り(浅草神社の三社祭) 



 「三社祭も先月(3月)に終わって、浅草も静かになったな。あとは来月(5月)の神田祭りだね。」と書くと、「この唐変木!何を訳の判らねえ事を言ってやがんだ。三社も神田も5月じゃねえか。」と江戸っ子にまくしたてられるかもしれない。

 ところが、江戸時代には、三社祭は、『観音祭』又は『浅草祭』と言われ3月17日、18日に行われていました。明治元年(1868年)3月28日、「神仏判然令」が布告され、3月17日、18日に『示現会』、5月17日、18日に『三社祭』として行われるようになりました。今では『三社祭』は神輿の担ぎ手や、交通事情などを勘案し、この日に近い週末に行われます。今年は5月14日から16日に行われます。

 『浅草寺縁起』によれば、『推古天皇36年(628)3月18日の早朝、浅草の駒形橋の袂で浅草寺のご本尊の観世音菩薩の像が、2名の漁師、檜前浜成(ひのくまのはまなり)・竹成(たけなり)が引く網に掛り、早速この漁師たちは、この像を郷司(里の役人)、土師中知(はじのなかとも)に見せると中知はこの尊像に深く帰依して自らも出家、自宅を寺と改めて観音さまの供養に生涯を捧げた。』この中知の寺が浅草寺の始まりです。又、観世音菩薩が示現された場所が駒形橋の袂の駒形堂(通称、「こまんどう」)です。

写真1 浅草寺(撮影つげの会 木村晃郁)

 平安時代に本地垂迹(ほんじすいじゃく)思想と言う考え方がありました。神の前世は仏であると考えられていました。 本地垂迹思想とは、神の本地(本体)は仏であるという考え方で仏や菩薩が人々を救うために仮に神の姿をとって現われたのだという考え方です。浅草神社にはそのご本尊を見つけた2人の漁師と郷司を権現(仏の化身として神として現われる。) として祀り、浅草寺にはその本地 (阿弥陀如来、観世音菩薩、勢至菩薩) を奉っていますので、浅草寺は三社様とも言われ、浅草寺の祭りが三社祭と言われる所以です。

 この辺が、日本の思想の素晴らしい所で、高度な社会組織や技術を含む新しい文化をもたらした仏教と昔からの神道を融和させ、日本的な神仏混淆の新たな思想を生みだしました。勿論、仏教が日本に入ってきた初期の時代には宗教間の争いはありました。(587年物部氏と蘇我氏の対立) しかし、新たに生み出された宗教として民衆の間に根付いて明治維新まで続きましたが、明治維新の際のキリスト教排除と言う目的の為、天皇と言う中心軸の必要性及びその強化のための神道への流れにより「神仏判然令」が布告され、意図的に作られた無宗教と言う状況に民衆は追い込まれました。(この状況については別の稿「明治維新と言う宗教革命」で語りたいと思います。)

 しかし、この平安時代からの新しい思想の現れとして、日本では沢山の神仏混淆の祭りが民衆の間で行われ、現在でも残っています。その中で浅草寺の『示現会』、浅草神社の『三社際』はまさに神仏混淆の極致とも言える祭で、今もその原型が残っている事は素晴らしい事です。

 『示現会』及び『三社祭』は、先に述べた三権現、土師真中知命(はじのまつちのみこと)・檜前浜成命(ひのくまのはまなりのみこと)・檜前竹成命(ひのくまのたけなりのみこと)が3基の神輿に乗り浅草寺本堂で本地である如来、菩薩と対面されると言う行事です。

 (話しが全く飛びますが、英語で神輿を「Portable Shrine」と言います。携帯電話の事を「Portable telephone」言いますが、携帯神社と言うのは正に、その意を正確に表していますが多少、味気ない感じは否めません。文化の違いを翻訳する際の難しさですね。)

今でも3月17日、18日に行われる『示現会』では、まず17日に古式に則り浅草神社の三基の神輿が氏子衆により松明で照らされた浅草寺本堂外陣へ「堂上げ」され、浅草寺本堂の観音様の前に一晩安置されます。この際、浅草寺僧侶は3基の神輿を前にして読経を行います。

 翌朝、浅草寺僧侶による読経、浅草神社神官による祝詞奏上の後、3基の神輿は氏子衆の手で「堂下げ」され、浅草神社に戻ります。この浅草寺僧侶らによる読経と浅草神社宮司祝詞奏上は正に神仏分離以前の「観音祭」とも呼ばれていた三社祭を一部再現し、5月の三社例大祭のプロローグでもあるのです。
(今年は本堂の修復工事のためお神輿は出ず、三体の神霊を唐櫃へと移し、浅草寺本堂へ移し、翌18日夕刻に浅草神社へ還御されたそうです。)

 5月に行われる『三社祭』は、この『示現会』の神輿渡御の部分です。今でもこの祭りは素晴らしいものですが、『示現会』と一体と成っていた江戸時代の祭は民衆の神仏混淆の信仰を正に現わしたより素晴らしい祭だった事でしょう。

 『兵庫県尼崎市のコミュニティーFM局「FMあまがさき」で6日から始まった新番組「8時だヨ!神仏集合」のタイトルが、宗教関係者から「誤解を招く」と指摘を受け、13日の2回目の放送から「8時だヨ!神さま仏さま」に変更された。内容を見た宗教関係者から「『神仏習合』を思わせ、よろしくない」と指摘されたという。』(2010年4月21日09時28分 読売新聞インターネット版からの抜粋)

 1400年の間、民衆の中で定着した「神仏混淆の思想」が、明治維新の中で壊され、大東亜戦争以降「信仰の自由」が謳われながらも、教育の中でも信仰に関する明確な位置付けがなされないまま今日に至っています。新たな思想が誕生する事が望まれます。

写真2 浅草神社の神輿蔵(撮影つげの会 木村晃郁)


  【10 NOZOKIMI散歩の4 おわり】




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□09 NOZOKIMI散歩の3 芸能・隅田川その2


 菅原考標(すがわらたかすえ)女(1008~1059年)が綴った『更級日記』の中に、上総介であった父に同行し、上総国から帰郷する際、「まつさとのわたりの津」(現・千葉県松戸市)を通って西に向かったとかかれています。平安から源平時代にかけては世紀以降、最大の温暖期で現・東京湾もかなり内陸まで入込んでおり、この時期の官道は北のほうに移動していたようです。

 さて、これまでの色々なお話で昔の隅田川が川岸の風景が目に浮かんできます。それは見渡す限りの葦原です。(目をつぶらないとそんなイメージは浮かんできませんが。)しかし江戸時代には、浅草近辺は諸国貿易の中心地でしたので両側に倉庫や店がずらりと並んで居ました。江戸時代はこの辺りの隅田川を「おおかわ」と言い、東岸を隅田川堤、西岸を大川端といいました。

 それでは阿寒平太の覗き見散歩のルートです。日の出桟橋から乗った水上バスを大川端の浅草で降ります。江戸時代でしたら芝居茶屋や新吉原の茶屋の出迎えを受け、手を添えられて船から下りるのですが、今はそんな悠長なことをしてくれる人もなし、さっさと降りましょう。

 降りた所が墨田公園の直ぐ横ですが、この公園の桜も実に見事です。水上バス乗り場の前の墨田公園駐輪場で台東区のレンタサイクル(6時から20時までで身分証明書の提示が必要です。利用料金は200円/日 墨田区道路交通課 自転車対策担当 TEL03-5246-1305)を借りてさて、歴史散歩に出発です。

 隅田川堤の長命寺から梅若塚・木母寺を回り、大川端に戻り昔の新吉原を突き切って、鳳神社に寄って、浅草寺にお参りし出発点の墨田公園駐輪場に戻ります。全工程約9kmのサイクリングです。

 長命寺には琵琶湖竹生島の弁財天の分身が祭られております。琵琶を持った色っぽい神様で知られる弁財天は、もともとはインドの河(水)の神様でしたが、日本に伝わってからは弁舌や音楽を司る芸能の神様として信仰されています。境内には芭蕉の句碑や十返舎一九の辞世の狂歌碑や色々な歴史的なものがありますが、ここで重要なことは門前の『山本や』の二百数十年の味を伝えている桜餅です。関西の道明寺の桜餅と違って、円形のクレープの様な薄皮で甘さを抑えた餡を包み、それを桜葉で包んであります。此処に寄って桜餅を食べながらお茶を飲む、これは素晴らしいことです。(これは全く余計なことですが昔、向島で芸者遊びのお土産は決まってこの桜餅でした。)

 次に寄る所が梅若塚・木母寺です。東白髭防災拠点の団地の中に榎本武陽の銅像が立って居り、その後ろに「梅若塚碑」と書いてある小さな石柱が立っています。此処が、かつて梅若塚があった所です。そこから隅田川の方に向かうと木母寺があり、境内には震災や戦災でも焼かれなかった梅若堂が建っています。

 その次が江戸時代から昭和まで長い間続いた新吉原です。日本橋辺りにあった吉原を江戸の町の発展に伴い移した所で、今は千束4丁目ですがその面影を残し、風俗営業の店がずらり。夕方にはとても素通りが難しい所ですが、昼間は全て閉まっています。地図を見ながら周ると良くわかりますが、昔の新吉原を囲っていた鉄漿(おはぐろ)溝(どぶ)が道となってこの地域を四角く囲っています。
 此処から鳳神社、浅草寺と回り出発点の水上バス乗り場に戻りますが、桜を見たり途中で桜餅を食べたりで、のんびり時間を過ごし夕方、5時頃に戻る計画で回ってください。

頃も良し、江戸時代での時刻では日没の暮れ六つ。浅草寺周辺にはなかなかおいしい店がそろっています。より取り見取り、それほど老舗が多く迷った末今回は店を選びません。
お腹を楽しませた後、今日の締めくくりは、明治13年(1880年)創業「神谷バー」(台東区浅草1丁目1番1号TEL (03)3841-5400)です。

 ここでかの有名な「デンキブラン」というブランデー・ベースのカクテルが出来たのは明治15年(1882年)、建物は大正10年に建てた物を現在も使用、と言う兎に角、歴史を感じさせる建物。此処の3階の和風レストランで食事と言う案もあるが、やはり食事をした後、ぶらりとバーに入ると言う過程が大切。まっ、人それぞれでしょうけど。

酔ってふらっとする間もなく、地下鉄・東京メトロの浅草駅。花と歴史と芸能を楽しんだ一日でした。


 写真 隅田川の桜



  【09 NOZOKIMI散歩の3の2 おわり】




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□08 NOZOKIMI散歩の3 芸能・隅田川その1


  『春のうららの 隅田川 のぼりくだりの 船人が 櫂のしずくも 花と散る 眺めを何に たとうべき。』 この時期に隅田川の花を楽しみながら、日本の芸能に親しむと言うのが今回の「阿寒平太の覗き見散歩」です。

 今回の覗き見散歩は、船を使い、貸し自転車を使い、のんびり且つ動きがよい散歩です。隅田川を上りながら川から土手の桜を楽しみ、「隅田川」ゆかりの地を貸し自転車でぶらりと回り、暮れ六つ(6時) 頃、浅草寺周辺に沢山ある老舗の鰻屋或いは牛鍋屋で、空腹を満たし、一日の散歩の締めくくりを東京メトロ・浅草駅のすぐ傍の大衆的なバー「神谷バー」で一杯やって、締めくくると言う散歩です。

 出発点はJR浜松町駅南口から徒歩8分の「日の出桟橋」です。時刻は午後2時頃が良いでしょう。隅田川を上って行って、吉原や州崎へ粋な遊びに、或いは猿若町に芝居見物に繰り出す勢いで船に乗り込みます。乗船している時間はわずか40分間。橋の説明や川岸の風景については船の中の放送でも説明されますので、ここでは説明しません。

 さて、隅田川と言えば「能」の『隅田川』や歌舞伎の数々の「隅田川物」、舞踊の「隅田川」。この元は墨田区堤通の梅柳山木母寺(ばいりゅうざんもくぼじ)に伝わる「梅若権現御縁起」の梅若伝説です。

 『子宝に恵まれなかった京都北白川の吉田少将とその妻は日吉宮に祈願して梅若丸を授かった。5歳の時、父と死別した梅若丸は7歳の時、比叡山月林寺に入り、その英才を賞せられた。しかし、その才を妬まれ、襲われた挙句に人(ひと)商人(あきんど)にかどわかされ、奥州に向かう途中の隅田川のほとりで病に倒れ、梅若丸はわずか12歳で帰らぬ人となった。我が子の行方を捜し求めて狂女になった母が渡し守から、我が子の死を知らされたのは丁度、一周忌のことであった。その夜、母の思いが通じ梅若丸の亡霊が現れる。母は墓の傍に庵を作り暮らしたが結局、浅茅池に身を投じてしまうが、不思議にも亀がその亡骸を背に乗せ浮かび上がってくる。母を妙亀大明神としてまつり、梅若丸は山王権現に生まれ変わった。』

 この話を謡曲にしたのが世阿弥の嫡子観世元(かんぜもと)雅(まさ)で、謡曲「隅田川」は妙亀大明神と山王権現の部分を除くとほぼこの梅若伝説の通りです。

 この謡曲「隅田川」を下敷きにして、歌舞伎の世界では鶴屋南北(四世)作「隅田川花御所染」(通称、女清玄)、「隅田川」(竹本義太夫正本)、近松門左衛門の「雙生(ふたご)隅田川」、「隅田川続俤(すみだがわごにちのおもかげ)」などの「隅田川物」と言われるジャンルが出来ましたし、大正時代に作られた舞踊「隅田川」は登場人物も狂女と船頭の二人で隅田の渡しのシーンが演じられます。
 この様に中世から近世まで多くの隅田川物が作られた背景には「狂女物」の世界と「人買い物」の世界と言う、中世の貧困の生活の中で多く語られた現実の二つの世界が「綯交(ないま)ぜ」になっていたからだと言われています。
 源義経の一代記「義経記(ぎけいき)」には源頼朝が治承四年(1180年)、平氏打倒の石橋山の合戦に敗れた後に再起し、安房国から鎌倉を目指した際、増水で海のようになった隅田川を前にして5日間も足止めされた話が出ています。その時、江戸(えど)重長(しげなが)が千葉(ちば)常(つね)胤(たね)、葛西(かさい)清(きよ)重(しげ)の助けを借りて海人の釣り船数千艘で浮橋を作り、頼朝を渡しました。場所は東武伊勢崎線の「鐘ヶ淵駅」の南側を東西に走る古代東海道が、今の隅田川にぶつかるあたり一帯といわれています。此処に先に述べた木母寺もあります。

 「昔、おとこありけり」で始まる「伊勢物語」の在原業平(ありわらのなりひら)が『名にし負はば いざ事問はむ宮こ鳥 わが思う人はありやなしや』と読んだ所も、この古代東海道の隅田川の渡し(朝廷が管理する渡し)でした。古代東海道(官道)はほぼ直線に京の都と地方を結び、この道も此処からまっすぐ葛飾区立石を通り千葉県市川の国府台に延びています。官道には立石、大道という遺称地名が多く残されています。 


 写真 隅田川の桜



今回は特別に来月に続きます!
  【08 NOZOKIMI散歩の3の1 つづく】




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□07 SEKAI雑記の5 塩分摂取量


 戦禍がまだ、あちらこちらに見られるボスニア・ヘルツェゴビナの春の4月、雪の消えた山道で、道路を塞ぐ様に羊の群れが道路で何かを舐めていました。羊飼いに聞くと塩を舐めているとの事。彼らは冬の間に融雪用にまいた塩をアスファルトの亀裂から摂取していたのです。戦火のない、のどかな春の一頁でした。


 写真 道路の亀裂を舐めている羊の群れ

 人間と同じように動物たちも塩を必要とし、その量は一日当たり、ヤギは20g、馬は30~40g、牛は80g、ニワトリが0.8~1gとされています。牧場で飼われているこれらの動物たちは通常、岩塩を与えられています。

 一方、野生のライオンや豹の様な肉食動物は、血まみれになって獲物を食べている時、その血に含まれている塩分を同時に摂取しているのです。草食動物は岩塩がある場所を知っていて、そこから塩分を摂取しています。

 いちめん雪で覆われた極寒の地の草食動物たちは、露出した岩塩から塩分を採取しますが、食餌と塩分摂取の両立は難しく、トナカイが人間に飼われる様になったのは、人間のオシッコに含まれる塩分を求めて、人間の生活空間に入り込んだのが大きな理由だと言われています。

 犬は塩分が不足すると、軽症では次のような行動や症状を見せると、獣医が書いています。『散歩の際、よその犬のオシッコをよく舐める。人の手や足をよく舐める。オシッコの後、陰部を長く舐めている。』『口の中が乾いていて、指で触ってもよだれがつかない、目も乾きがちで、白っぽい粘液状の目やにが見られる。』

 重症になると『シュウ酸カルシウム結石が出来やすくなり、オシッコの色が濃い黄色になる。腎臓の数値が上がり始め、手術の麻酔時に不整脈が観察されるようになり、麻酔で死亡するケースもある。軽い下痢・嘔吐でも動けなくなる。』

 極限状態になると『意識状態が朦朧とし、飼い主への反応が鈍くなり、運動能力も衰え運動障害や椎間板疾患と誤診される。内臓機能の限界から下痢をおこし、腎機能検査の値が跳ね上がる。』『このような症状に対する処置としては、点滴が行われるが、何杯かの味噌汁が、効果がある。』と書いています。(しかし通常、犬に塩分は禁物と言われており、多少抵抗感もありますが。)

 さて、人間にとって塩はなくてはならないものです。胎児を育む女性のおなかの中の羊水は、原始の海の成分や塩分濃度と同じだと言われています。卵子と精子により誕生した新しい生命の最初の1、2カ月は、魚と同じ様にエラ呼吸をしています。胎児は、『地球上に生命が誕生した時から今の人間に至る40億年の過程を、十月十日の短い間にたどって誕生する』と言われています。壮大なロマンですが、その短時間の劇的な変化により、女性は「つわり」で苦しむのだとも言われています。(これを換算するとおなかの中の1秒は、胎児にとって約150日を意味します。女性はすごいですね!)

 人間の体の中の塩も、動物と同じように血液やその他の体液の中に存在します。体重70kgの男性の場合、約200gの塩が体内に存在しています。塩分は体液の中で浸透圧により老化物を運び、水分量の調整で細胞と体液の間の圧力調整をし、筋肉を動かし、運動機能の素となっています。

 ところで塩の摂取量について、日本とアメリカで基準の表示が違っています。塩は「塩化ナトリウムNaCl」を含む物の総称です。アメリカではこの「塩化ナトリウム」の中のナトリウム量(sodium)を摂取量基準に使い、日本では「塩化ナトリウム」(sodium nitrate)の量を摂取量の基準にしています。通常使用する塩には色々な物が含まれていますので、「塩化ナトリウム」量で計るより「ナトリウム量」で計る方が正確なのですが、通常の生活の中では不便です。

塩分・ナトリウム換算式: 
[ナトリウム(mg)×2.54÷1000=食塩相当量(g)]

 この計算式よると、日本高血圧学会のガイドラインの「6g未満」は、アメリカのナトリウム量換算では2,362mgとなります。勿論、これはアメリカの摂取ガイドライン内です。

 最近、病気知らずの私は、不覚にも血圧が高いと診断されました。高血圧の原因とされる塩分の摂取量について調べた際に見つけた多少、一般に興味がありそうな事を取り上げて羅列いたしました。調べた中に『塩分は高血圧の原因ではない』と言う学説もありました。もし、これが実証されれば塩辛やラーメンなど心おきなく食べられるのですが。



  【07 SEKAI雑記の5 おわり】




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□06 SEKAI雑記の4 近代戦争・憎しみ・報道・生存


 ボスニア・ヘルツェゴビナ国で、通算1年ほど設計と監理の仕事をした事があります。ボスニア・ヘルツェゴビナ国は、昔のユーゴ連邦国の構成国で、チトー大統領が執っていた民族融和政策でムスリム、セルビア人、クロアチア人の異なった3民族、イスラム教、ローマ・カソリック教会及び東方正教会と言う異なった宗教の人たちが、纏まって近隣として生活していました。しかし、彼の死後、3つの宗教、3つの民族が入り乱れ内戦(1992年3月~95年11月)が起きました。

 内戦の発端は、首都サラエボでの民族衝突だと言われますが、実際はそれから始まったそれぞれの立場からの宣伝報道が原因と言われています。報道から憎しみが生まれ増幅しある日、隣家からの銃弾で父親が撃たれ、返す弾で隣家の息子が傷つく、そんな隣人同士の争いが大きな内戦に発展しました。私が滞在していた時は、戦後8年も経っていましたが、自分の家が在るにも拘らずまだ、帰る事が出来ない人々が沢山いました。隣人が信用できない為、帰れないのです。

 この戦争は、色々な近代兵器が使われましたが、内戦ですから大きな兵力がぶつかり合うと言う事ではなく結局は村、町の取り合い、人と人との殺し合いです。サラエボの日曜日の朝、夫婦で食事をしている時、夫の額に狙撃手の照準の赤い点が付いた途端に夫の頭が吹き飛んだ。北のクロアチア国境近くのブルチコと言う町では、町の中心部で何処からか弾が飛んできて沢山の人が犠牲になりました。最後に給水塔の上にいた狙撃兵が殺され、犠牲者は出なくなりましたが、その狙撃兵はオリンピックで活躍した女性の射撃選手だったそうです。彼女は幾らかの食料と弾で、生還する事のない一人の戦いをしていたのです。

 現代の戦争では戦う双方は、それぞれ色々な国際機関を味方につけようと宣伝活動をします。最初から劣勢だったモスレム側は、国連に働きかけました。その際、自分たちの置かれている状況を説明するキャッチフレーズを考えました。最初、考えられたのが南アフリカの白人と非白人の分離を意味する人種隔離政策を意味する「アパルトヘイト(Apartheid)」です。しかし、これでは意味が弱いという事で考えられたのが「民族浄化(Ethnic cleansing)」です。この言葉は国際社会に大きな衝撃を与え、国連が動きました。

 事実、それぞれの側がそれに近い事をしました。女学校を占領し、乱暴をするという事も起きました。この戦争以降、ハーグの国際法廷で戦争の際のレイプは戦争犯罪だと規定されました。戦後8年も経っていましたが、多くの男性が内戦で亡くなった為、どの会社に行っても働く主力は女性でした。ボスニア・ヘルツェゴビナ国では生まれる子供の男女の比率で、極端に女の子が多く、ある村では1:8だと報道されていました。戦争で男性が多く亡くなり、生まれる子供を守ろうとする母親の意思がそうするのかもしれません。


 写真1 戦後8年経っても放置された建物のムクロ1


 写真2 戦後8年経っても放置された建物のムクロ2

 写真名は両方の写真とも「戦後8年経っても放置された建物のムクロ」です。大きなビルの写真は、炎上している時の映像が世界に配信されました。このビルは現時点では既に新たに外装され使われ始めています。ただ、この短い文章で戦争の悲惨さ、報道と言うものの強さ、怖さを語っておくべきかと考え投稿しました。


  【06 SEKAI雑記の4 おわり】




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□05 SEKAI雑記の3 「ものつくり」と法王様の車  


 何時でしたか以下のような文に出会いました。

 『一般にものづくりと言うと「匠」の世界の話として紹介しがちであるが、「ものづくり」とは、設計情報をものに作り込み、市場までの「設計情報の流れをつくり、良い設計、良い製品」で顧客や社会を満足させ、結果として売り上げを得る経済活動の事である。「ものづくり」は一つの思想である。』

 日本の車は、時代の流れの中で顧客のほしいものは何かを的確に把握し、それを設計に盛り込み、製品として世に送り出し、売り上げを伸ばしてきました。アメリカのビッグ・スリーと言われた自動車メーカーの経営破綻、救済と言う事が大きなニュースになりました。一部ではこれは自業自得、いわゆるKY(空気が読めない)という問題だと言われていました。

 ボスニア・ヘルツェゴビナで仕事をしている際に、ローマ法王様(ヨハネ・パウロ2世)の車を見ました。この車は、法王様が外国を訪問される際に使われる車だそうですが、機能一点張り、無味乾燥という表現がぴったりと言う代物でした。これがバチカン法王庁の要求品質???

 改造したデリバリー用2トン・トラックのような車ですが、法皇様の前に御話し相手用に2席あり、法皇様の座席は上下します。(添付写真1参照)

 写真1 法王様の車全景

 後方からの写真(添付写真2参照)は、法王様を沿道に人たちが拝謁出来るように座席が上がった状態です。勿論、周りのガラスは防弾ガラス。出入りは座席の後ろの扉からですが、どのように車から出るかは不明です。多分、座席が回転しスロープが出来て、車椅子になると言う具合だと思います。車椅子の写真はこの座席とそっくりでしたから。防弾ガラスの厚さは5㎝と聞きましたが、このガラス重量だけで約2トン。ガラス周りのフレームも丈夫そうです。しかし、後ろからの写真でお分かりのように、車はイタリア製ではなくドイツ製ベンツでした。イタリアで設計していたら、もう少し法王車と言う雰囲気に成ったのではないでしょうか。

 ちなみに車のナンバープレートの CSV はバチカン市国のラテン語Status Civitatis Vaticanæの頭文字です。CSV -1は法王様の車ナンバーです。

 写真2 法王様の車背面

  【05 SEKAI雑記の3 おわり】




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□04 NOZOKIMI散歩の2 鷽替(うそかえ)神事  

 来月はもうお正月「睦月」です。(掲載12月) 「睦月」の意味は、人々が集まって宴をする「睦び月(むつびつき)」とする案が有力だとの事です。

 今回の「阿寒平太の覗き見散歩」は、色々な睦びを訪ねる散歩です。江戸時代からの芸能「落語」を覗き、明治時代からの牛鍋に舌鼓を打ち、1月25日に行われる湯島天神の「鷽替神事」を訪ねた後、その名前も散歩を締めくくるにふさわしい大人のバーOnce upon a time(ワンスアポン・ア・タイム=昔々)で酒を楽しむと言うものです。

 天神或いは天満宮は、菅原道真を「天神」として祀り、彼の怨霊のたたりを鎮める為に作られた神社ですが、其のいきさつを講談風に語ると次の様なものです。

 『400年の長きを誇る平安時代の始まりから100年ほど経った宇多天皇の時代、頭の良かった菅原道真(大伴旅人、大伴家持などを輩出した歌人、学者の家系)は、単なる事務係(18歳で文章生)からあれよ、あれよと言う間もなく出世に次ぐ出世。41歳で香川県知事(讃岐守)、46歳で天皇秘書官長(蔵人頭)、そして54歳にしてついに右大臣(朝廷の最高機関の最高位)。

 しかし、出る杭は打たれるは世の常。左大臣にチクられたとか、天皇家のお家騒動に巻込まれたとか、色々噂はあるものの、ああ、九州の大宰府に左遷。その頃の大宰府は、いわば軍の九州方面本部で九州地域の軍事、外交の要、彼の役職は副本部長(太宰権帥・だざいのごんのそち)。実質権限は副本部長が握り、中国との交易利権も集中していた。

 しかし、おえらいさんの左遷先としても有名でまあ、今風に平たく言うと「左遷するけど、余生は年金なしでも安泰、安楽」。私だったらそこでのんびり暮らすけど、彼は違ったね。左遷2年後に大宰府で病死後、怨霊となって清涼殿に雷を落としたり、疫病を流行させたりの大活躍。「まあ、なんとか穏便にお願いします」と言う事で彼を神様にして造られたのが「天満宮」。』

彼が優れた学者であったことから「天神様」は学問の神様ともいわれ、教育熱心な日本全国に広まり、約8万社ある色々な神社の中で第3位、5%の約4000社が「天満宮」です。

 彼が生まれたのは6月25日、左遷命令が1月25日、命日が2月25日で、毎月25日は「天神さんの日」とされ、1月25日を「初天神」といいます。(神社も意外に簡単にイベント日を決めるものですね。)
 「初天神」この日、「天満宮」では「鷽(うそ)鳥」(名前は口笛の「おそ」から来ている。全長15cm程の小鳥で、130円切手デザインのモデル)の木彫りが授与されます。「鷽」という字が学の旧字に似ていることから「天神様」のお使いとなっているそうです。

 鷽替神事は、この授与されたこの木彫りを、「替えましょう、替えましょう!」と言って隣の人と取り替えて、嘘を誠にするという行事です。(写真1)


 写真1 湯島天神鷽替神事

 さて、今回の散歩は上野の「鈴本演芸場」が出発点です。鈴本演芸場(開業1857年)は、江戸時代から大衆芸能、特に落語の殿堂でした。江戸時代では落語の他に浄瑠璃・軍事読み(講談)・手妻(奇術)・八人芸(一人で八人分の楽器の鳴り物や声色などを聞かせる芸で腹話術の原型)・説教・祭文・物真似などが上演され、安政年間(1854-1860)江戸には落語・講談の寄席が合計して約四百軒もあり、江戸時代に如何に素晴らしい大衆文化が花咲いたかわかります。 落語の歴史は何時からと言うのは難しく、『徒然草』(1330年)の兼好法師が『落語系図』に名をつらねて、落語の歴史の上に噺家として登場していることからも古い歴史がわかります。

 落語には「落ち(サゲ)」、語り口(弁舌)の上手さ、仕型(仕形・仕方=身振り手振り、表情)の3つが大切です。落語は、しゃべるだけでなく、高座に正座して上半身の洗練された身振り手振りや表情によって、用いる道具も普通は扇子と手拭いだけで、一人で大勢の登場人物や情景を描写しわけなければなりません。それを見るのが寄席の楽しさです。

 初天神の落語と言えば、落語「初天神」があります。『何時も物を買ってくれとねだる息子をしぶしぶと初天神につれてきた男。何やかやとねだる息子の作戦に負け、ついに大きな凧を買うはめに。子供時代腕に覚えがある男は、子供を差し置き、凧上げに夢中になり、子供は「こんな事なら親父なんか連れてくるんではなかった。」とぼやく。』 当日、この落語がうまい具合に聴けるかどうかは「鈴本演芸場」のHP(http://www.rakugo.or.jp/)をご覧ください。

 さて鈴本演芸場には昼の部中入り(午後3時位)に入ります。勿論、座る前に売店でビール或いはコップ酒とつまみを買って落語を見ながら、ごくごく、ちびちび、飲みながら、つまみながら。これが又、寄席の楽しさです。二時間ほど楽しんで出ます。

 鈴本演芸場の前の広い道路は、江戸幕府が火災発生の際に類焼を防ぐ為道幅を拡げた所で、今の道路幅はそのままです。この辺りは江戸時代に幕府の茶礼.茶器をつかさどり、殿中に於いて茶を供する数寄屋坊主が拝領した拝領町屋で、下谷御数奇屋町と言いました。さてこの上野広小路から春日通りに入り、湯島天神下までは江戸時代には無かった道ですが、湯島切通し坂は江戸時代のままです。

 湯島天神の下を通り、少し切通し坂を上ると左側に江知勝(文京区湯島2-31-23、電話 03-3811-5293営業時間17:00~21:30)があります。ここは、創業明治4年ごろと伝えられている牛鍋屋です。明治8年の毎日新聞には、鍋料理の番付表で前頭にランクインしている老舗中の老舗です。味付けに使う割り下は、伝統的な関東風でちょっぴり辛口。しょうゆと砂糖、みりんといたってシンプルですが、何と開店当初から130年間使い続けているものだそうです。東京帝国大学のすぐ裏と言う場所柄、文人、教授などの溜まり場だったとの事。

 ここで明治の味を楽しみ、お腹一杯になった所で食後の散歩に湯島天神まで。ここで木彫りの「鷽」を授与してもらいます。ここは江戸時代から梅の名所として庶民に親しまれて、園内には約300本の梅がありますが、ここの梅祭りは2月8日~3月8日の1ヶ月間ですが、早いものはこの「初天神」には咲いています。(写真2)


 写真2 鷽の授与

 この神社は明治の文豪・泉 鏡花の小説『婦系図(おんなけいず)』の結ばれぬ「お蔦、主税」の悲恋の舞台としても有名で、境内には鏡花の「筆塚」もあります。この境内の開門時間は午後8時迄ですのでご注意ください。

 現在の本殿は平成7年12月に、総桧木造りで建て直されましたがその際、日本初の建設大臣認定第一号として木造建築が許可されました。つげの会会員としては一見の価値ありです。

 湯島切通し坂を天神下の信号まで下りて、そこを右折し神田方向に約300m歩き左折して二つ目のブロックにOnce Upon a Time(=昔々 住所:台東区上野1-3-3 電話:03-3836-3799)と言うバーがあります。江戸、明治時代と巡って来た散歩を締めくくる所がこのバーです。古い倉庫を思わせる明治初期のレンガの外壁にOnce Upon a Timeと言う赤いネオンが点き、入ると古い木材を使った内装。酒だけを飲ませると言う雰囲気の大人のバー。そんなバーの片隅に座り「お蔦」と言う昔の女に思いを馳せながら、今日の散歩を終わりにしましょう。ここは営団地下鉄千代田線「湯島駅」迄歩いて3分の位置です。

 【04 NOZOKIMI散歩の2 おわり】




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■03 SEKAI雑記の2  建物の動態保存の難しさ  

 NPOつげの会の会員で精力的に活動されている水上勝之氏は「群馬音楽センターを愛する会」を主宰され、高崎にレーモンドが設計した群馬音楽センターの動態保存に奔走されています。

 富山県五箇山、岐阜県白川郷は「合掌造り集落」として世界遺産に登録されていますが、3、4階建ての大きな茅葺の民家を生活しながら動態保存していく困難さは、よく報道されています。嘗てはそれぞれの家に大家族が住み、労働集約的な生産を行っていたこれらの集落では、大屋根の茅葺の葺き替えにも十分な労働力がありました。しかし、今ではそれぞれの家に住む家族の人数は、都市部の集合住宅の1戸と変わらない状態で、観光客のほうが多いのが現状で、茅の葺き替えも多くのボランティアに支えられて行われています。

 ただ、観光地化されたこの「合掌造り集落」は、保存への様々な問題点を抱えながらも時代の流れの中で観光産業と言う新たな生産活動の中に生き続けることが出来ています。しかし、世界遺産に指定されながらもその存続を危ぶまれている、集落、町が沢山あります。そのような例を一つご紹介しましょう。

 マザー・テレサが生まれた国としてご存知の方も多いアルバニア国(バルカン半島にありギリシャの北にある。) に「ギロカストラ」と言う都市があります。この都市の旧市街地は、2005年に「ギロカストラの博物館都市」として世界遺産に登録されました。街並みを形造っているのは、この地特有のクラ(kullë「塔」の意)と呼ばれる石作りの家で、オスマン帝国時代に作られたものです。(写真1、写真2参照)

写真1 ギロカストラ旧市街地俯瞰


写真2 ギロカストラの街並み

 壁も屋根も全て変成岩の一種の板状の結晶片岩で作っています。高い建物は3階建て4階建てもありますが、各階の床は木造ですが、それ以外はすべて石で造られています。屋根も木造の母屋、垂木の上に板状の石が葺かれています。(写真3参照)

写真3 石屋根の屋根裏

 この石葺きの屋根は、「合掌造り集落」の茅葺ほどのメンテナンスは必要ないのですが、石も長い間に劣化します。温度差による内部応力や、片理にしみ込んだ水の凍結により結晶は崩壊し、薄くそして時には崩壊しますので部分的な補修作業は必要です。それ以上に大きな問題は、その大きな重量の屋根を支えている木造の母屋、垂木です。

 私がその都市を調査していた時、腐った母屋、垂木が折れ、屋根が崩壊し、その家で生活していた家族6人が死傷したというニュースをテレビで見ました。最近では旧市街地写真に見られるように瓦やトタン葺きの屋根も多くなってきました。この都市は城砦都市で大きな城もあるのですが、このバルカン半島はイスラム教、カソリック・キリスト教、東方正教などの宗教が入り乱れ覇権を争った地域ですので、少し大きな都市には城がありそれだけでは観光資源にはなりえません。まだ観光産業が発達していませんが、発達してもこの町が自立するためには、ギリシャ国境から40㎞と言う地の利を生かしてギリシャとの観光連携が必要なのかもしれません。

  【03 SEKAI雑記の2 おわり】



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□02 NOZOKIMI散歩の1  お酉さま

 季節毎の祭り、芸能、花、時には花より団子などを追いながら、ぶらりと気楽に散歩すると言う「阿寒平太の覗き見散歩」を今回からご紹介します。

 11月=霜月には「お酉様」が12日(木)と24日(火)にあります。『もう、お酉さまか、すぐに師走だな。』と言う感覚を江戸時代の人は持っていました。お酉さまは霜月の酉の日に開催される関東の祭りで、もともとは神仏混淆の民衆の信仰に根ざした商売繁盛を願う「市」で、寺でも神社でもご本尊の御開帳や市が立ちます。(写真1)

 写真1 お酉様

 浅草の長国寺内の鷲(おおとり)大明神社は、江戸時代に妙見様と言われ、勝海舟やその他多くの人々の信仰を集めましたが、そのご本尊は鷲の背に乗った釈迦とされています。この鷲大明神社は、明治初年に出された神仏分離令で、長国寺から分離し鷲神社になりました。明治維新と言う大きな宗教革命により民衆の間に根付いた多くの祭りや信仰が消滅しましたが、その嵐に耐えて「酉の市」が残ってくれた事はうれしい事です。
 今回の「阿寒平太の覗き見散歩」は、お酉さまをハイライトにして、根岸(前に季語を付けるとすぐに俳句になると言う『根岸の里の侘び住まい』)を覗きながらの樋口一葉の足跡を訪ね、医食同源の精進料理、普茶(ふちゃ)料理を楽しみ、お酉さまの後は、大人の雰囲気のバーで酒を楽しむと言う散歩にご案内します。

 散歩の出発点は三ノ輪です。三ノ輪には東京メトロ日比谷線の三ノ輪駅と都電三ノ輪橋駅がありますが、お勧めは三ノ輪橋駅です。大塚駅前からこの都電に乗って三ノ輪橋までの風景は、他の車窓からの風景とはまるで違います。電車に触れんばかりに目の前を通り過ぎる生活風景は実に新鮮です。

 都電三ノ輪橋駅から昭和通りに出て右折し、明治通りの交差点、信号・大関横町を過ぎて直進すると、信号・三ノ輪に出ます。(此処までは5分程度です。) ここの下が東京メトロ・三ノ輪駅で、ここからが今回の散歩の主題が点在する「国際通り」の起点です。

 「国際通り」は、松竹の国際劇場(ああ、SKDレビュー!なんと陽気で、華やかで、素晴らしい世界だった事か!) があったことから付いた道路名です。今では、それも浅草ビューホテルになり、名前の根拠をなくし、周辺の商店街は「ビートストリート」と愛称をつけて町おこしの活動をしています。NPOつげの会会員としてはこれも散歩の視点の一つです。(10月25日にビート・フェスティバル開催)
 さて、この国際通りの信号・三ノ輪から250m程の所に、信号・竜泉2丁目があり、そこを右折するとすぐに「千束稲荷神社」があります。ここは樋口一葉の「たけくらべ」の中で舞台となった所で、本殿に向かって左側に一葉の胸像があります。「たけくらべ」の中の少年少女たちは、何と生き生きと遊びまわり又、冷酷でありながらやさしい時を過ごしているのだろうかと、思い出しました。

 此処から、再び「国際通り」に出て、それを横切り3つ目の角を右折し、150mほど行くと左手に一葉記念館(台東区竜泉3-18-4、入館料一般:300円、開館時間:9時~16時30分:休館日:月曜日、祝日と重なる場合は翌日)があります。酉の市が開催される24日は、勤労感謝の日の翌日で休館となりますので、此処をこの散歩に組み入れる場合は、12日の「酉の市」にこの散歩をしてください。
 樋口一葉は、貧しさの打開を目指し小説を書き始めますが、彼女の文学者としての人生は、明治27年12月「大つごもり」の発表から「たけくらべ」の連載が完結する明治29年1月までの、わずか14カ月でした。明治29年11月23日に結核で24歳8カ月の短い人生を閉じますが、翌年には『一葉全集』が刊行されるほど、評価の高い文学者です。この「一葉記念館」には「たけくらべ」の草稿が展示されており、苦労して推敲している状態が判ります。

 一葉記念館から、さらに一ブロック進んで右折し30mほど進み、信号・飛不動前を左折しますと、すぐに飛不動尊(龍光山正宝院)の入口が目に入ります。「本尊の不動が一夜のうちに大峰山から飛んで帰って来た」事から、江戸時代では「道中安泰」、現代では特に「航空に携わる人々或いは飛行機の旅の安泰」を願う人々の参拝を集め、「飛行護」というお守りを授与しています。しかし、パイロットが本殿の前で熱心に祈り、お守りを買う姿は余り見たくはありませんね。飛行機への信頼感が揺らぎます。

 此処を出て右に進むとすぐに五差路にでて、斜めに走る少し太い道を右に行くと、すぐに国際通りの信号・西徳寺前と言う交差点に出ます。道路を渡り少し三ノ輪方向に戻り、二つ目の角を左折すると、大音寺の入口です。大音寺は「たけくらべ」の真如が育った龍華寺のモデルと言われていますが、落語の「悋気の火の玉」の舞台としても知られています。「吉原の遊女上がりの妾と本妻の火の玉が大音寺の前でぶつかり合い、大音響を立て・・・」と言う話ですが、吉原、根岸の里と言うとこの手の落語が生まれます。

 この大音寺の先に正燈寺という寺があります。この寺は360年以上前に京都の高尾から紅葉を移植し、江戸時代の名所絵図には紅葉寺として登場するほどの景勝地で、その見物を口実に吉原遊郭に遊ぶ客が多かった所です。『鬼平犯科帳』『御宿かわせみ』などの時代物には登場する寺で、江戸末期の地図では敷地も大きく大音寺、その南隣りの西徳寺などと接し、景勝地と言われる規模を誇りましたが、今は残念ながら規模も小さく紅葉は見られなくなってしまいました。

 先ほどの信号・西徳寺前に西徳寺という寺があります。この寺は大正12年の関東大震災で本堂が全壊しましたが、昭和5年に参詣席が椅子席で、鉄筋コンクリート造の本堂が再建されました。時代を先取りした寺院建築史の一頁を開く建物で、建築にたずさわる者として見ておきたい施設です。

 西徳寺の山門を出て右方向50mほどに信号・鷲神社前があります。この信号を右折し最初の角を曲がると普茶料理・梵(ぼん、台東区竜泉1-2-11 TEL 03-3872-0375)があります。
普茶料理は約300年前、明の隠元禅師が来日した折より伝わる精進料理で、これが野菜だけで作る料理かと目を見張ります。多くの料理が次々に出てきますが、簡単にお腹に入って行き、ちっとももたれません。(写真2)

 写真2 梵メニュー

 この店は予約が必要ですが、今まで覗いた所の開館時間や参拝時間を考えると、食事を始める時間は、少し早目ですが5時だと適当でしょう。三ノ輪を2時に出発しゆっくり回っても3時間あれば十分です。1時間の食事の後、暗くなって鷲神社の明るく華やかに灯る店・店を回りたいものです。

 この時間には、鷲神社の鳥居の前にはものすごい行列が出来、物々しく警察の警備車両が並び、さすが江戸から続く祭りとうならせる雰囲気です。大きい熊手、小さな熊手、おかめの面が付いたもの、枡がついたもの、形も大きさも色々。色々な光に華々しく浮かび上がる日本の色の洪水。
勿論、熊手の値段も色々で値切る交渉もそれぞれ。ただ、それも遊びのうち、熊手の原価計算をしても野暮というもの。値切って値が決まると、ご祝儀に元の値段以上に払って、しゃんしゃんと手締め。これが粋というもの。

 さて、ゆっくりと酉の市を楽しんだ後、国際通りをさらに三ノ輪とは反対方向に進むと、信号・西浅草3丁目の先の右手に浅草ビューホテルがあります。此処まで鷲神社から15分も掛らないでしょう。つくばエクスプレス出入り口2番に近いビューホテルの角を右に入ると、「バーリー浅草」(台東区西浅草3-15-11、電話:03-3847-1066 営業時間:平日・土日祝日 18:00~1:00)というバーが左手にあります。
 このバーは昭和63年創業の落ち着いた大人のバーという雰囲気で、今日の散歩を締めくくるにはふさわしい所です。『酒を飲む所で女の話は野暮というもの』という思いが脳裏をかすめますが、はかなくも24歳の短い人生を生きた明治文学の美女を語る事は許してくれそうです。

 ゆっくりと時間が過ぎるのを楽しみ、帰りは目の前の「国際通り」に埋まっている「つくばエクスプレス」の「浅草駅」も、銀座線「田原町」、「浅草」も至近距離です。

  【02 NOZOKIMI散歩の1 おわり】




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■01 SEKAI雑記の1  宗教施設の方向

 古代では農作物や狩りの収穫は、今以上に季節や天候に左右されその為、古代の宗教者は今の「お天気お姉さん」のような役割も担っていました。古代の建造物で、春分や秋分の日の出に光が建物の一点に射すようになっているものや、明日の天気を見る物見台を備え、一種の天文台になっている施設はインカやエジプトを含め世界に広く見られます。この流れから今でも多くの宗教施設は、その軸方向が決まっています。
 東方教会(Orthodox Church、キリスト教の分派、ロシア正教会、アルメニア正教会、シリア正教会、コプト教会など)は、祈りの方向が東である為、建物軸は東西になっています。所が以前、ボスニア・ヘルツェゴビナ国で仕事をした際、奇妙な東方教会を見ました。敷地に新旧の二つの教会が建っており、古い教会の軸は正確に東西をむいていますが、新築の教会の軸が10度以上ずれているのです。(写真1参照)

 写真1

  早速、司祭に訊ねてみると、「教会の軸線がずれても問題ない。敷地の前を通るMotor-way(高速道路)に軸線を合わせた。」との事。怒り心頭に達し「宗教施設をなんと考える!神様は車で出勤するのか!」と思いましたが、ふと南極や北極に立った東方教徒はどの方向に祈るのかと言う自問に答える確たる知識もなく、全ての融和を考える仏教徒として素直に引き下がってきました。
 イスラム教では、祈る方向は厳密にメッカの方向ですので、この南極、北極と言う問題もなく、教会の建物(モスク)としての軸線もそれほど厳密ではありません。キリスト教の教会を、イスラム教会として使っている建物では、建物軸線と内部で行われる礼拝儀式の方向が異なっていました。
 この写真(写真2参照)は、非常にプリミティブな旅人用のモスクで、イスラム諸国ではよく見られるものです。祈りの前に手足を洗い、口をゆすぐために川の傍にあり、目印の大きな樹が立ち、数人が祈りをあげられるようにモルタル仕上げの床があります。

 写真2

 つい先頃、Pakistanで130床の病院建築を監理した際の事ですが竣工2か月前、隣接したモスクの僧侶が現場の視察後、トイレの便器方向を変えろ、もし、変えないなら我々がぶっ壊すと強硬な指示。便器の方向がメッカの方向に向いているとの理由ですが、建物の軸線も便器も正確にはメッカ方向ではないのですが、大体その方角に向いているという事だけでこの指示。色々なイスラム諸国で仕事をしましたが、これは初めての経験でしたが、スタッフの話ではパキスタンではあり得るとの事。近くを流れるインダス河の川向うまで厳格な原理主義のタリバーンの勢力が迫っている中で、議論の余地はなく即、変更しましたが、なかなか理解に苦しむ状況でした。プリミティブな祈りから始まった宗教の発展(?)と、プリミティブな人間の生活との結びつきを、どのように解釈すればいいのでしょうか。
  【01 SEKAI雑記の1 おわり】


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