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■11連載コラム 阿寒平太の世界雑記

 
 「阿寒 平太の世界雑記」
               by 阿寒 平太

□作者略歴
 つげの会13期生。鹿島建設東京支店勤務後、同社海外事業本部エジプト支店に11年間勤務し、帰国したのち退職。他の建設会社に2年間勤務後独立。現在、建設現場管理工学のコンサルタントとして、国内及び海外の建設工事関連のコンサルタント業務を行っている。「NPOつげの会」設立メンバー。
 世界を飛び回りながら、当ホームページのために原稿を発信。その幅広い活動範囲から、いくつかのコラムを投稿中のため、一部他メディアとの重複原稿となる場合あり。世界の建築・文化から、芸能や工芸、遊興、江戸までその興味は広く、このコーナーも満を持しての登場。乞うご期待。

※この項は、新しい投稿を上に掲載しています。※


阿寒 平太コラム34~ 世界雑記の29からはこちら ※このページです 
阿寒 平太コラム16~33 世界雑記の11からはこちら>>
 
阿寒 平太コラム~15 世界雑記の10まではこちら>> 

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□45 SEKAI雑記40
動態保存の家に住む難しさ
 


 ネパールの首都カトマンズの南に隣接するラリトプール市の世界遺産地域には多くの古いネパールの時代を彷彿とさせる建物が、現代でも生活の場として使われています。まさに動態保存地域です。
日本では地域としての動態保存では世界遺産の「白川郷」が有名です。



画像左:白川郷の住居
画像右:ラリトプールの住居

 ラリトプールには木造の細かな装飾の格子窓が特徴の古い時代の住居が沢山あり、白川郷と同じように今でも住居として使われています。


画像:ネパールの歴史建造物外部立面・断面



画像:木造の内部と急な階段

嘗ては全ての建物は3階半建で統一されていましたが、現状では4階或いは5階建に増築されている建物が大部分です。外壁に日干しレンガを使用している構造となっていますが、窓を含め主要構造部材は全て木造となっています。
白川郷の家は生活空間と作業場という2つの機能を持っていましたが、全ての生活空間は1階にあり、その上階は全て蚕だな或いは養蚕道具スペースが占めて謂わば、生産の作業場でした。其の為、養蚕を行わなくなっても、建物を保存しやすかったと言えます。
ラリトプールの建物は、1階は不浄の階と考えられて、台所は臭気、排煙の為、3階或いは屋根裏階に設けられています。居間は3階、寝室は2階を使います。このように生活空間は建物の上階まで広がっており、それだけ生活しにくいと言えます。
この様な家の多くの家主は、郊外に引越をして、多くの古い建物は内部を細かく間仕切って安く賃貸されています。冬場はプロパンが手に入りにくくなりますし、質の悪い灯油は焚いていると目がしょぼついてきて、涙が止まらなくなります。調査に入ったそこでは、裸の赤ちゃんを抱いたお母さんの傍で裸火が燃えていました。


画像:狭く区切られた台所、裸火の傍のお母さんと赤ちゃん、裸火が燃えている居間

 この様な状況のなか、この歴史的な建物はどうやって生き延びていくのでしょうか?


この項おわり




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□44 SEKAI雑記39
アッパー・ムスタンTrekking記
後編
 


 [11月14日]4日目
 7時にhotelをジープで出発。Chhusan(2980m)という町を出発後3時間ほどで通過し、そこから20分ほどで、対岸のChele(3050m)と言う町の近くのジープが渡れない河の地点に到着。歩いて狭い鉄骨の橋を渡り対岸に。今回はTrekkingといっても大部分ジープのたびですので、ポーターが居ないので歩く場所では20kgを超える荷物を背負って移動。

 対岸でCheleから来た乗り継ぎのジープに乗り換え、そこから2時間ほどのSamar(3660m)でそのジープの移動は終わりで、そこからはジープも通れない山道徒歩で2時間半ほど歩きBhena(3830m)まで移動。

 これはまさにTrekkingで、荷物は雇った馬が運んでくれた。ジープや馬などを雇う作業があり、現地の言葉が通じないとなかなか出来ない旅だった。そこからまた、ジープで移動し途中Shyangbochen(3850m)で食事を取り、2時間ほどの移動時間でGhami(3765m)に4時前に到着し、そこのhotel Royal Mustangに投宿。その宿は昔、寺だった所をそのまま取り込んで、宿の中に3mを超えるような大きな仏像が鎮座している本堂があった。

 そこの町は日干し煉瓦に泥を塗った外壁と木造の軸組みを合わせた構造の家が軒を連ね、殆どが平屋根で、パラペットの上には細い薪が積んであり、それは家の飾りの一つでそれを積んでいないと、人から色々と言われると宿の女主人は話していた。全く観光化されていないふるい時間が流れている町。冬の寒さのせいか家の中に中庭がありそこで家畜も一緒に生活をしている。

 前日に泊ったカグべニでは、石を積み上げた外壁の家がほとんどで、このガーミでは日干し煉瓦に泥を塗っている外壁、それぞれ土地の特性に根付いた住いの町が続く。


画像:カグベニの街と女主人。

 そこの女主人は、実に有能でそこから先の宿やジープの手配をしてくれた。冬になると山を降りて、ポカラやカトマンズで生活をすると言っていた。

[11月15日]5日目
 9時にジープでhotelを出発し12時前についに最終目的地のLo-Manthangローマンタン(3810m)に到着し、hotel Mystique Himarayanに投宿。


画像:ローマンタンの街。

 古い町の部分は高い壁で囲われ中心部に城があり、全て日干し煉瓦で出来た家が狭い路地を形作っていた。海外の旅行本にはWall-townと載っていた。

 16時に王宮内部で旧王家のprinceと15分ほど接見できた。アメリカで教育を受け来たとの事で、判り易い英語を話されていた。(下の写真ではその辺の親爺に見えるがprince其の人。立派な家具の中にはダライラマの写真が飾られている。この辺はチベット仏教の領域。)

 兎に角、タイムスリップしたような感じでなかなか貴重な体験をした。


画像:旧王家のprince。

[11月16日]6日目
8時にhotelから馬で出発。荒涼とした風景の中を2時間ほどの乗馬でChhoser(3900m)に着く。ここからチベット国境まで12kmほど。20年ほど前まで人が住んでいたという洞窟住居や周囲の寺を徒歩で回り、再びローマンタンまで馬で戻った。2時半前に帰着。




画像:ローマンタンまで馬で戻る。

[11月17日]7日目
 ついに帰り道。8時にローマンタンをジープで発ってGhamiに10時に到着。そこでお茶を飲み、引き続きBhenaまでジープで移動し11時半に到着。そこから来たときと同じように再び馬を雇って荷物を運ばせ、Trekking2時間ほどでSamarに到着。そこでAnnapurna Hotelに投宿。

[11月18日]8日目
 朝、町の直ぐ近くの山は白く雪化粧をしていた。9時にhotelをジープで発ちCheleの町の下の橋の所に10時半に到着。乗り継ぎジープを少し待ち、12時前にジョムソンに到着。

[11月19日]9日目
 7時頃の乗り合いバスでTatopani(1190m)まで行き、そこで再び乗り合いバスでBeni (830m)に6時過ぎに到着。この日は終日雨。Beniでタクシーを拾いポカラまで降りhotel Mum’s Gardenに宿泊。

[11月20日]10日目
8時にhotel発、2時前にアパートに帰着。

このローマンタンを通る街道は、昔はインドとチベットを繋ぐ主要な貿易街道だったが、今は単に昔を訪ねるトレッキングルート。時の流れの中で置き忘れた場所をめぐるような旅でした。


以上後編  この項おわり




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□43 SEKAI雑記38
アッパー・ムスタンTrekking記
前編



 表題にTrekkingと書きましたが、実際はほとんどジープでの移動の旅で、そんなに大変というわけではなかったのですが、チベット国境近くまで行くという事で気分は奥地探検。最終目的地はローマンタンLo-Mantang。

 同じ道を多くの欧米人は実際に徒歩旅行、或いはマウンテン・バイクでサイクリングしている。サイクリングと言っても、場所によっては自転車を担いで上ったり降りたり。

 中国に占領されているチベット国とネパールとの間に8000m級の山々を抱えるヒマラヤ山脈が走っていますが、首都カトマンズがあるカトマンズ盆地から車で5時間ほどのところのポカラと言う有名な国際観光都市の辺りではヒマラヤ山脈はネパール国内に入り込み、アンナプルナ・ヒマラヤ山脈を形作っています。


画像:周辺地図。

 その北、チベット国境までの地域をムスタンと呼び、嘗てムスタン王国が広がっていました。嘗てこのヒマラヤ山岳地帯には沢山の王国がありました。

 インドに併合されたシッキム王国、ネパールに併合されたこのムスタン王国。その中でブータン王国は、一民族一国家主義を掲げ、多くのネパール人を含む外国人を国外追放し、独立を保っています。この難民キャンプがネパールにあり、国連難民高等弁務官事務所がその救済に活動しています。幸せの国と言われるブータンの違う一面です。

 さて、今回の旅の最終目的地は嘗てのムスタン王国の首都ローマンタンです。海外の旅行本には出ていますが、世界の観光地を網羅していると豪語する「地球の歩き方」は出ていない所で出発前から期待に胸が膨らみます。

 出発から帰宅まで日程に従ってムスタンTrekkingを説明しましょう。全日程は10日間、同行者はJICAのJOCV2名(女性)、ネパール人姉弟、私を含めたJICAシニアボランティア2名の合計6名。

[11月11日]1日目
 カトマンズのアパートからワゴンカーで6時に出発し、Pokharaポカラ(820m)に13時過ぎに到着。ポカラのhotel Mum’s Gardenマムズ・ガーデンからは、神聖な山として登山が禁止されている6997mのマチャプチュレがくっきりと白い威容を見せていた。AnnapurnaアンナプルナI(8091m)を含むアンナプルナ・ヒマラヤも遠くに見え、この山々の裏側に入り込むのかと言う気持ちの初日として満足。

[11月12日]2日目
 Hotelを6時にジープで出発し、3時半前にJomsonジョムソン(2720m)のhotel OMS’ Homeに到着。ここまでのジープはカトマンズの旅行社Nozomi Treksで手配済みでしたが、これからは通信事情が悪いことで、確認が取れておらず各宿で確認手配をする必要があり、これ以降は言葉が堪能なJOCVの活躍に負うところ大でした。

 Hotelは部屋ごとにトイレ・シャワー室があり、実に快適な宿。この街は、ネパール人が信仰するMuktinathムクティナート寺院(3760m)に参拝する基点でもあり加えて、Thorung La Pass(5416m)という北側の峠越えとEastern Pass(5340m)南側の峠超えを含むムクチナート・ヒマラヤ周囲を廻るTrekkingコースの基点ともなっている為か、如何にも登山の町と言う感じがする。

 この町の南にはNilgiri(7061m)の威容が見上げるように聳え立っており早、ヒマラヤ山塊の懐に入り込んだという気持ち。

 この町には、ポカラからの飛行機便があり、飛行機を利用するとポカラでの乗換えがあり、カトマンズから数時間と言う近さで2日間日程を短縮できます。しかし、山間の飛行場で運休が度々あるとの事で、日程的に限られた旅行の場合は予測がつかないとの事。





画像:Nilgiri(7061m)の威容。

 [11月13日]3日目
本日の旅程はMuktinathムクティナート寺院に参拝した後、ジョムソンからジープで2時間ほどのKagbeniカグベニ(2810m)で宿泊。7時過ぎにムクチナート行きの乗り合いジープでカグベニを通過した後、寺院に参拝し、再び乗り合いジープでカグベニまで戻り12時前にRed Hotelに投宿。

 ムクティナート寺院は小さいがそれなりに神秘的な感じを持つ寺院で、周りが荒涼とした風景であるにもかかわらず、大量の水が寺院の周りに流れており、その聖水を受けることがネパール人にとってとても大切な事で、一生に一度はお参りしたい寺院との事。




画像:Muktinathムクティナート寺院参拝。

 前日までは樹林帯の中を進んできたが、この町の周囲は荒涼とした山岳が広がっている。町の西に、この旅の最終目的地のLo-Mantangローマンタンから流れてくるKali-Gandaki-Nadi河が流れており、その河岸の絶壁に地層がはっきりと見える。

 町の少し北の地点において、蛇がのたうつ様に褶曲している下流側の地層が、水平の地層とぶつかっていた。今回の旅では、その地点から北のほうでは地層の褶曲が見られず水平の地層のみだった。これは素人考えだが多分、ここが古いユーラシヤ・プレートと新しいインド亜大陸プレートがぶつかった所なのかもと考え、悠久の時の流れの地球の歴史の足跡を見た気がしました。


画像:Kali-Gandaki-Nadi河の河岸に見られる褶曲。

 Kagbeniカグベニの町は細い路地、石を積み上げた外壁と木造の骨組みを組み合わせた家々の連続。古い歴史の中に沈んでいるような町。郊外には石垣が黄色く色づいた木々の林を囲っているところが点在している。

 放牧しているヤギ、牛、馬などから、植えつけた苗木を守り、冬の間、色々な動物から樹皮を守る囲いで、樹木がない荒涼とした中に色づいた林が点在している。樹木は建築用材や薪に使い、落葉は馬やヤギの餌になる。もう、そこまで冬が来ているという感じ。




画像:Kagbeniカグベニの町の細い路地と遠景。

以上前編




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□42 SEKAI雑記37
ランタン・トレッキング記
(2012年10月22日~28日、7日間)帰り
後編
 


 
ランタンから流れる氷河を眺めたその日は、幾つもの高い山に囲まれたシャングリラ(映画の「失われた地平線」のオリビア・ハッセーの様な美人には会いませんでしたが。)ではとも思われるキャンジン・ゴンパにもう一泊し、次の日の8時前に小屋を出発し、帰路に着きました。


画像:道中の道端にあるチベット仏教の祠。中に経典のマニ車が据えられている。

 途中、宿泊予定の小屋が一杯で泊まれず、10時間以上歩きづめで下り、予定以上に稼いだせいか、1日行程を早め7日間のトレッキングでカトマンズに帰ってきました。


画像:山小屋と言っても村の一角にある民家という感じで、生活臭が溢れています。

 ここで山男、山女の皆さん方には言わずもがなの事かも知れませんが、私なりに気付いた事を記載しておきます。

 まず10月で日本の高地よりネパールの高地の方が、気温が高いとは言え、相当寒く少々ケチって-15℃対応と言う寝袋を持参しましたが、インナーを使っても寒くて小屋から毛布を借りました。-20℃対応と言う寝袋を旅行社から借りた同行者は寒くなかったそうなので、寝袋は性能が良い物を選ぶべきでしょう。

 小屋のトイレは殆どが別棟か、或いは離れた所にあり夜中に部屋から出て、暗い中を歩く必要があります。殆ど電気が来ていない山小屋ではヘッドランプは、それ以外に意外に空き時間が有るトレッキングでは読書や物書きにも必需品です。

 トイレは全て洋式トイレではなく、日本の和式トイレの金隠しがない物ですが、トイレット・ペーパーの備えは無く、置いてあるバケツの水を使い手で洗うと言う方式です。紙を使った場合は、置いてある箱に捨てるようになっています。

 山小屋は、全て通常の歩く速度で2時間以内の所に散在しており、食事もできますので、持参荷物は食料品を考慮する必要は全くありません。食料としては飴、クッキーなどの嗜好品や、食事の際の副食品程度で十分です。

 ただ、朝早く起きる癖が有る私は、食事前にお茶やインスタント・コーヒーを飲むためにガス・ボンベと小さなガス・ヘッドを持参し、役に立ちました。

 今回、持参した水容器はnalgeneと言うアメリカ製のプラスチック容器ですが、これは沸騰しているお湯も入れられ実に便利です。寝る前にこれに沸騰しているお湯を貰い、湯たんぽ代わりに寝袋の中に入れ朝、その冷めた水を持参したガスで沸騰させインスタントのスープやコーヒーを毎日飲んでいました。又、余った水はそのまま持参し歩行中に呑んでいました。普通の水を安全な水に処理する[POTABLE AQUA]と言う錠剤も持って行きましたが、全行程、安全の為不味い湯ざましの水を飲んでいました。ネパールでは4,000mを越える所にも村が有りますので、山の水とは言え注意が必要です。

 今回、氷のように冷たい水で体を洗う気にもなりませんが、7日間の間に一度もシャワーや風呂には有りつけず、ボディーペーパーを使って体は拭いておりました。介護用のボディーペーパー、髪は拭くペーパー或いはお湯で浸した布で拭くと言う方法で清潔に保つと言う事が必要になります。

 トレッキングに持参する荷物は、飲み水、雨具や一時的な防寒着以外は全てポーターが運びますので、自分で運ぶ物は本当に少なくなります。ポーターに託する荷物の重量は通常、一人当たり10kg前後と考えているようです。今回私がポーターに託した荷物は11kg程度でした。


画像:我々のポーター。30kg以上を担いですいすいと歩いていく。

このトレッキングの時、私は70歳でしたが、こんな年寄りでもこんな素晴らしい所に行けるという事で、自ら感激しました。

 ガイド、ポーター、同行者の支援なくしては達成できませんでしたが、このランタン谷は本当にシャングリラに通じているのではと思うほどに美しい谷でした。皆様も是非、行ってみてください。


以上後編 この項おわり





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□41 SEKAI雑記36
ランタン・トレッキング記
(2012年10月22日~28日、7日間)行き
前編



 日本ではトレッキングと言うと単に山歩き、或いは軽い登山と言う意味で使われていますが、前稿にも書きましたがネパールでは厳密に意味を規定しており、6,000m以下の山歩きをトレッキングとしていて、安い入山料で山歩きを楽しめます。


画像:ネパールのランタン谷

 今回、私はランタン・リルン(7,227m)から流れる氷河を眺めに7日間のトレッキングに行ってきました。このトレッキングルートは、世界で一番美しいと言われているランタン谷を徐々に高度を上げながら、氷河を眺める最終目的地の4,335mのピークまで行きます。


画像:最終目的地のピークから見るランタン・リルンから流れる氷河

 このトレッキングに行く前に旅行会社にパスポートと入国ビザ、査証印頁のコピーを提出し、国立公園への入域許可申請し、入山料3,000.-NRsを支払い、手続きは入域する際にガイドが行い、ランタン国立公園事務所で入手してくれました。

 カトマンズを7時半頃に出てシャプル・ベンシ(1,460m)迄、旅行社が手配したランクルで行き、13時頃歩きだし死ぬような思いで何とか4時間ほどのトレッキング初日を終わり、その後も常にガイドに見守られながら同行者(40代の弁護士のJICA専門家)より常に30分から1時間ほど遅れながらも、出発から4日目に最終目的地のキャンジン・ゴンバ(3,840m)に到着しました。人によっては1日早く着くと思いますが、我々は高地順応の為、その手前のランタン(3,430m)にも1泊しました。


画像:道端の高山植物

 私は高地順応の為、事前に受診した医師より処方されたDiamoxと言う薬を、3,000mを越える前日より服用したせいか、高山病には掛りませんでした。しかし、JICAの「トレッキングの手引き」には過信はするな、と記載されていますので要注意です。

 キャンジン・ゴンバ1泊後、早朝8時前に小屋を出て、死ぬような思いで何とかランタン・リルンとそこから流れ出る氷河を目前に眺める事が出来るピークに上ってこのトレッキングの目的を果たしました。

 「死ぬ思い」だの「トレッキングの目的を果たす」等「トレッキングを楽しむ」とは程遠い言葉を使っておりますが、実際に上っている時は「こん畜生、こん畜生」と言う言葉を実際に吐きながら、5m登っては休み、10m登っては休みと言う状況でした。同行したガイドも、帰路の車の中で「私は登れないのではと思った。」と言っておりました。今、思うと一度でもガイドが「大丈夫か?」等とほざいていたら、その時で登るのを諦めていたかもしれないなと思っています。


画像:いかにも高山に分け入ったような感じの一枚。シャングリラを夢想するもむべなるかな!

 しかし、登ったピークからの眺めは実に素晴らしく廻りを標高7,227mのランタン・リルンや 5,000m以上の山々に囲まれ、幾つもの氷河を眼前にすると、それまでの苦労を差し引いても余りある気がしました。(写真参照、烏滸がましくも「NOB」等と小石で書いて写真を撮っておりますが、これもその時の感動を如実に表した児戯とお笑いください。

以上前編





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□40 SEKAI雑記35
ネパールでのトレッキング
 


 ネパールでトレッキングと言ったら、目的地は当然、ヒマラヤ。ヒマラヤと聞いただけで、気分ワクワク、もうヒマラヤの奥地に踏み込む探検家気分。

 ヒマラヤの奥地に踏み込むと言う状況で、まず頭に浮かぶのは、イギリスの作家ジェームス・ヒルトン(James Hilton)の小説「失われた地平線(Lost Horizon)」に出てくるシャングリラ(Shangri-La)です。

 映画「失われた地平線」の女優オリビア・ハッセー(Olivia Hassey)の何と美しかったことか。コンチクショウ、布施明め!!(遥か昔の事で知らない人の為に付け加えますと、布施明は彼女と結婚し、しばらくアメリカに住んでいたのです。離婚しましたけどね。) 小松左京の「復活の日」の映画で草刈正雄と共演した時も彼女は本当に美しかった!

 ヒマラヤの奥地に行ったら、シャングリラのような場所にポッと出るのではないだろうか、そしてオリビア・ハッセーの様な女性と、という期待、期待、期待・・・・・・・。



画像:うら若きオリビア・ハッセー

 また、このイギリスの作家ジェームス・ヒルトンが今、生きていたら私だったら直木賞いや、ノーベル文学賞をあげてもいいと思います。彼の「心の旅路」「チップス先生さようなら」「鎧なき騎士」などなど全ての作品は心に残るものばかりで、今だったら本屋大賞連発ですね。是非ご一読を。

 話しがそれましたが、私は、ネパールで過ごした2年間に2回、ヒマラヤの奥地に分け入りました。(まッ、山好きな人に言わせると単なる山歩きとも言えない様なものですけどね。)

 1度目は、ランタン・リルン山(Langtang Lirung 7,234m)から流れている2本の立派な氷河を見るためにキャンジン・リ山(Kyangjin Ri 4,552m)に登った旅で、2回目はチベット国境近くにある今は、ネパール国に併合されたムスタン王国を訪ねた旅です。

 ネパールでのトレッキングは、日本で考えているトレッキングと多少、様子が違います。まず、ネパールでトレッキングというのは6,000m以下の山歩きを言います。3,000mを超す日本アルプス縦走もトレッキングです。何日もかけて現地にある山小屋や、旅籠に泊まって、ヒマラヤの奥に奥にと踏み込んでいきます。踏み込むと言っても、ずっと歩くトレッキングもありますが、ジープや馬の背に揺られてというのもトレッキングです。

 チーム構成は、トレッキング参加者3~4名毎に1名のポーターが付きます。それと1名のガイドです。このガイドの同行はネパールの法律で決められているそうです。

 さて次回は、いよいよ氷山見物のランタン・リルン山へのトレッキング報告です。





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□39 SEKAI雑記34
東洋のベルサイユ宮殿-Singha Durbar
 


ネパールのカトマンズに建つこの宮殿は1974年7月4日まではアジアで一番大きくて且つ華麗な王宮でした。
この王宮はChandra Shumsher( Chandra Shumsher Jung Bahadur Rana)国王が建てたものですが、7つの中庭を持ち、部屋数は1700室もありました。


画像:カトマンズに建つ宮殿

 これは当時のこの王宮の正面です。これは当時この王様の私邸として建てられたものです。1957年に着工し、ネパール人の工人により1年間で完成したそうです。


画像:階段室

 フランスのベルサイユ宮殿は、ルイ14世が建てたものですが、700室の部屋を持ち、1661年に着工しなんと完成まで50年も掛ったそうです。

 はるか昔からネパールは技術面でも、芸術面でも非常に高いレベルの工人がおり、1645年から10数年掛けて完成した、今は中国に占領されているチベットの首都ラサにあるポタラ宮殿もネパールの工人により施工されたものです。


画像:宮殿正面屋根上のライオン像

 これは、今も宮殿の正面の屋根の上を飾っているライオンの像です。高い芸術性と冶金技術を示しています。

 この宮殿は、7つの中庭を持ち、家具はヨーロッパ諸国から、ステンドグラスが飾られたドアはイギリスから輸入し、シャンデリアはミラノから、ベルギーから輸入した青色の鏡と自国の水晶をかざった噴水がある大広間で、1961年に先ごろ亡くなられたエリザベス二世女王と現国王のフィリップ王子をお迎えし華やかな歓迎式典が開催されました。


画像:大広間

 これはその大広間です。今は飾られていませんが多くの水晶が周りから噴き出す噴水に揺れ、軽やかな音色を響かせていたのでしょう。


画像:中庭

 これは中庭の様子です。このような中庭が7つもありました。

 残念なことにこの王宮は1974年7月4日に、この王宮内部からの火災で焼失してしまいました。鎮火する迄、2日2晩燃え続け、残ったのはファサードのみでした。今はこのファサードを残し政府の各省庁が入る建物が付属し建てられ、官庁となっています。

 下が今現在の官庁建物ですがもし、この宮殿が今もそのまま残っていたら、世界遺産の一つに加えられたかもしれません。そしてネパールはこの近代遺産を含め、より沢山の時代にまたがる世界遺産を保持する国となったのではないかと思います。


画像:宮殿のファサードを利用した官庁建物





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□38 SEKAI雑記33
ヒティー(Hiti)と言うネパールの歴史建造物
 


 ネパールのカトマンズ盆地にある首都カトマンズ、その南に隣接しているラリトプール、東にあるバクタプールは、ユネスコに登録されている世界遺産です。それぞれに王宮があり、王宮を中心とした古い時代の都市は、周辺の川の流れから50ⅿほどの高台に広がっています。

 為政者がまず一番に考えなければならない要素は、住民に対して如何に毎日の水を提供できるかです。これらの都市には、1500年前から今まで変わることなく使われているヒティーという水の供給施設があります。


画像:今でも生活の中で使われているヒティー

 建設時は400ものヒティーあったそうですが、今でも200以上のヒティーが市民の生活の中で使われています。その代表的な構造は、カトマンズ盆地の周辺の山から導いた地下水路網と、その地下水路網の高さに合わせて地面から数メートル下がった水の受け口からなっています。


画像:小さなヒティーは夏になると排水を止めて子供たちのプールに

 全くのフリーメンテではありませんが、ローマの水道と同じように泥や落ち葉などを除去するシステムがあるそうです。メンテナンスはその地域の住民が行っていますが、このヒティーや井戸は、今でも住民組織の基本単位になっています。

 日本で最初の水道施設は、徳川家康が、人々の居住には飲み水や生活水の確保が必要だと考え、1590年に小石川上水を作らせたのが最初です。それより1000年も前の作られた水道施設が今でも使われているという動態保存の現状も、ネパールのカトマンズ盆地の都市が世界遺産に選ばれた一つの理由なのです。


画像:ラリトプール王宮の中にある王様専用のヒティー

生活の中で使われているので街を歩いていると、ふとしたところに小さなヒティーがあって運が良ければ若い女性が水浴びしているシーンにぶつかることもあります。


画像:小さなヒティーで水浴びする若い女性

ネパールは、昔はローマに匹敵するくらいの文明国だったという、ネパールの凄いことを紹介させていただきました。




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□37 SEKAI雑記32
建物のムクロ
 


 連日、ウクライナの色々な都市の破壊された様子が報道される。そこには破壊された建物がこれでもかこれでもかと容赦なく映し出されています。

 同じような光景を昔、バルカン半島のボスニア・ヘルツェゴビナでも見ました。チトー大統領が三つの宗教と三つの民族の融和を図り、宗教を超え民族の壁を乗り越えて、一つの国として様々な人が当たり前のように生活していた。それが、何かの小さなきっかけで、隣家同士の銃撃戦の中で、それぞれの家族が傷つき、次第にそれぞれの宗教、民族ごとに争い始め、大きな内戦に進んでいってしまった。

 このボスニア・ヘルツェゴビナで2年ほど仕事をしたとき『時の流れ』と『同化』と言うことを特に意識しました。この時は、内戦が終わってすでに9年ぐらいたっていましたが、いたるところに見捨てられた建物が建っていました。ただ、帰る家があっても隣人を信じることが出来ないため帰れないのです。


写真:ムクロ

 ウクライナが1991年にロシアから独立する以前、ソ連の民族融和政策によってお隣同士で住んでいたときもありました。しかし、ロシアのウクライナ侵攻によって、大きく分類すると兄弟のような民族同士が信じられない状況になっています。ウクライナもボスニア・ヘルツェゴビナと同じように建物の残骸が累累と打ち捨てられているようになるかも知れません。

 それは自然の中に自然でない建物が生まれ、その意に反して生命を絶たれ、自然がその浄化作用で自分の傷口を治していく過程は人の時の流れの速さでは測れないほどゆっくり流れていくという実感を覚えました。何時になったらこの屍は自然に帰るのだろうか、人の時間では計れない時間が必要なのではないかと。

 建物がその生命を終わらせるとき、どのような儀式がふさわしいのか、全ての物に神仏が宿ると考えた昔はどうだったのか、知りたいものです。昔、井戸を埋めるときに儀式をしたのを覚えています。今は忘れ去られた解体の儀式、撤去の儀式があったのではないでしょうか。

 人間の生活がほかの動物のそれと同じように自然なものと考えると、コルビジェの考えのように人間が建てる建物も、蟻が作る蟻塚やビーバーが作るダムのように自然の一部とも考えらます。最近、人間が作る建物も単に部品が処理しやすいもの、再生しやすいものと言う考えから、建物そのものが自然に同化しやすい物、自然の浄化作用に適合する物が求められるようになってきています。漁礁や鳥の住処のように人間が住まなくなった時は他の動物が住むと言う考えもするかもしれません。ボスニア・ヘルツェゴビナでも人の住まなくなった家に沢山の鳩が住んでいるのを見かけました。

 自然も人間社会も異なるものをその体内に取り入れるとき、長い時間をかけてそれを異なっていないものに変えていきます。時にはそれを浄化といい、時にはそれを同化とも言い、長い時間を掛けながら確実に変化を進行させます。

 人間は、民族とか国とか社会とかと言う業を背負って生きています。人間がその業という異物を自然に同化していくためにはどのくらいの時間が必要なのでしょうか???




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□36 SEKAI雑記31
ベルゲンからロシア国境までの船旅
 


 井上先輩が「世界をウオッチングする16」でノルウェーのベルゲンの訪問記を書かれておられ、ベルゲンからロシア国境のキルケネスまで6泊7日の船旅をしたことを思い出しました。

 元々、この旅はオスロの市電を含めた交通システム調査が目的でしたが、その時に撮った実にうらやましい市電の写真です。両側の車道に挟まれた芝生の市電専用路。


写真:オスロの市電

 さて本題の船旅ですが、この船旅は、『世界で一番美しい航路を走る』と言われていますが、観光航路ではなく普通の商業航路です。食事の際のドレスコードなど煩わしいいことは一切なく、気楽な船旅ですが、その代わり船室はそれほど大きくないので、持ち込んだバッグ類は、預かってもらえます。

 ベルゲン(北緯60度23分)を出港した船は、ノルウェーの西海岸にそって無数にある小さな島の港に、それぞれ1時間から2時間ほど寄港しながら2400㎞の航路を北上します。寄港する時間帯は、航行時間によって夜中であったり昼間だったり様々です。

 この旅は、5月位の白夜のころでしたので、真夜中でも黄昏時ほどの明るさで、真夜中でも街歩きも出来ましたし、不思議なことに色々な店も開いていました。もう、温かな季節になっているはずでしたが、意外に寒く街でハンティングジャケットを買い、今でも愛用しています。


写真:船旅 航海図


写真:船 全景

 寄港の度に、船腹に開いた大きなスロープを下り上陸するのですが、そこに大きく出港時間が表示されており、それを目安に散策に出かけます。

 ぶらりと船から降りて町の喫茶店に寄り、のんびりとお茶を飲んだり買物をしたりしました。時には町の傍まで近寄ってきたトナカイを見ることもありました。

 ところで船旅では、食事は料金に含まれています。ビュッフェ形式の食事ですが、その内容は実に様々で素晴らしく美味しく食事時間は一つの楽しみでした。

 また、途中で船に積んであるランチ(小型モーターボート)で、フィーヨルド見学のオプションツアーもあり楽しみました。


写真:ランチ船上の友人

 途中の小さな港では、船が横づけ出来ないので、このランチが使われますが、これは船旅で友達になった人との別れのシーンです。

 さて、この旅でのハイライトは、北緯66度33分を超えて北極圏に入るときに行われる船上での「北極祭り」です。ノルウェー神話の神様の仮面の人が、乗客の背中に氷水を注ぎ込むという単純なものですが、これで一挙に乗客同士が近しくなるような感じでした。


写真:背中に氷水を注ぎ込まれる私

 出港して7日目の朝に、ロシア国境まですぐというキルケネス(北緯69度43分37秒) に到着します。ロシア国境に行っても単に2m程度の金網のフェンスがあるくらいで、周りは雑草の野原という状態でした。

 此処からオスロまでは飛行機で戻りましたが、実にのんびりした時間を楽しんだ船旅でした。

 船旅には、その航路によって4種類の船旅があります。
1. 一つの国の中の河や運河をめぐる船旅(ナイルクルーズ、黄河クルーズ、イギリス国内の船旅など)
2. 幾つかの河や運河をめぐる船旅(一番長いものは、セーヌ川から黒海までの船旅)
3. 一つの国の周りを巡る船旅(このノルウェー沿岸航路、日本沿岸の船旅など)
4. 幾つかの国をめぐる船旅(世界一周航路、大西洋沿岸航路、地中海航路など)

 別の機会にこの船旅についても、拙文をご拝読頂きたいと思っております。



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□35 SEKAI雑記30 特別編
コロナ防疫体制と隔離施設の実体験報告
 

現在、ワクチン接種が連日ニュースになっていますが今回は、あまり話題にならない海外に対する防疫体制について、私の経験をもとにお話しします。

 私は今、バングラデシュで地下鉄の設計のお手伝いをしておりますが、ワクチン接種の為、一時帰国いたしました。現在、日本政府はインド型コロナの蔓延地域からの飛行機の乗り入れを禁じており、東南アジアから直接、日本に入るフライトはありません。

 そのため今回の帰国は、バングラデシュから、まず中東のカタールに5時間かけて西に飛び、そこから日本に10時間かけて東に飛ぶという、大回りルートで帰国しました。

 成田到着後、4段階の検査があります。まず、出発前48時間以内のPCR検査結果報告書のチェック、その次は健康チェックシートなどの事前に作成した書類審査、次は各人のスマホにダウンロードした4種類の指定アプリを実際に立ち上げるまでのチェック、次に唾液による抗体検査或いはPCR検査が行われます。

 夜間にもかかわらずそれぞれの検査会場では、30人以上の若い女性たちが生き生きと働いており、コロナが生み出した新しい職場という感じです。さて、この検査で陰性と判定され、それから入国審査、通関で入国となりましたが、ここまで飛行機を降りてから3時間近くかかりました。

 国によって隔離期間が決められており、バングラデシュは10日間隔離対象国で、空港からバスで、隔離施設成田東横インに運ばれました。

 ホテルのロビーで、入所の注意・説明書と体温計が渡されましたが、書類には一切、チェックイン、チェックアウトという言葉はなく、入所、退所という言葉でした。3食と宿泊代はただ、しかし収容所なのだということをはっきりと認識した瞬間です。

 部屋は、20m2以下の狭いシングルベッド室で、ベッド脇にデスクと大きな液晶TVがついています。衣類収納棚はなく、壁に衣類が掛けられるようになっています。



写真:収容所室内のデスク写真

 食事は、毎食弁当で、8時、11時、4時に「これから食事を配る。配り終わった時に知らせるので、それまで扉は明けるな。(勿論、もう少し丁寧な言葉で)」というアナウンスがあり、1時間後位に扉の外のドアノブにビニール袋に入った弁当が掛けられます。

 ベッドメーキングはなし、自分で全てしなくてはなりません。浴室タオルの取り換えも電話で頼むと、ビニール袋に入れてドアノブにかけてくれます。

 買物はこのホテルの1階にコンビニがあり、午前、午後共に2時間ぐらい開店し、その時間帯にコールセンターに買物を依頼すると、代金を入れるビニール袋がマグネットで張り付けられ、それにお金を入れて張り付けると、品物、お釣り、レシートを入れたビニール袋がドアノブにかけられます。

 このコールセンターというのは、このホテルとは全く異なる組織で、この収容所の管理を厚労省から委託されている組織のようで、全く素人的&お役人的。ノンアルコールビールを頼んだら、ビールという名称がついているのでダメと言われてしまいました。ある日、「滞在者が千人を超えているので弁当の配布に時間がかかり遅くなる。」との放送がありました。普通でしたら、こんな言い訳じみた放送は、ホテルの印象を悪くするので一切ないでしょう。

 収容所に入って3,6,10日目に唾で行うPCR検査があり、検体配布もドア越しにされ、検体提出の際は全身防護服に身を固めた検査官が名前を確認しながら受け取っていきます。部屋の扉の内側には唾が出やすいように、梅干しとレモンの写真が貼ってあります。



写真:扉に貼ってある梅干しとレモンの写真

 この収容所内では、一切禁酒です。収容者はコロナ感染被疑者の危険人物ですから、他の人が入室する事は一切ありません。今回の帰国便の乗り換え地であるドーハ空港では、コロナどこ吹く風で、色々ないい酒がすべて無税で買えます。そこで酒類を購入し、荷物に入れてこの収容所まで持ってきても、入所時の荷物検査はありませんので、身近に酒類を持った人たちは、禁酒への強い意志を試されることになります。

 この収容所が、刑務所と異なる点は、労働時間も運動時間もないことです、私の滞在中の1日の平均歩数は300歩程度でした。兎に角、椅子に座ると全てが手の届く範囲にあり、歩く必要がないのです。正に非歩行による人間の足の退化実験です。

 私は、幸いなことに急ぎの仕事があり、大きな液晶TVをPCモニターとして使い、毎日この良い環境で仕事が出来、いい時間を過ごせましたが、急ぎの仕事も酒もない日々を過ごさなくてはならない人にはつらい留置生活だろうと思います。

 こうして私は、長いお務めを終え、出所しました。



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□34 SEKAI雑記29 特別編
昆虫食の昆虫捕獲方法
 

この阿寒平太の世界雑記では現在、ネパール編を書いていますが、先ごろミャンマーに行った時に実に興味深い昆虫食用の昆虫の捕獲方法を見ましたので、ネパール編を中断し、忘れないうちに皆様にご報告します。

 昆虫食と聞くと、眉を顰(ひそ)める方もおられるのではないかと思いますがしかし、この稿は、昆虫食の味や調理についての報告ではありません。皆さんも常日頃からお世話になっているCookpadにも「イナゴの生姜入り佃煮」「イナゴ入りピーナッツ・バー」「炒め蜂の子」などのレシピが並んでいるように、日本にも昆虫食はあります。

 昔から昆虫は身近なたんぱく源でした。最近流行りの自然食材を売りの六本木にあるレストランでは、前菜として「へぼ」呼ばれる蜂の子の甘露煮が出てくるそうです。

 タイでは、ゴキブリのフライ(あの姿そのままです!!)や赤蟻の卵(スープやオムレツ、サラダに使うそうです。)、アフリカやオーストラリアでは蛾の幼虫を食べるそうです。
これ以外にタガメ(水中を泳ぎ回っているアレです。タイ国)、サソリ(中国)、蛾の幼虫(アフリカ諸国)など多士済々。


写真:森の中に点在する木造の家

 さて、先日ミャンマーに行った時のことです。宿舎に入ると居間や寝室に興梠(コウロギ)がうようよ。浴室に入るとそこでもうようよ。踏み潰さないように注意しながら、ベッドにたどり着き早速、殺虫剤をシュー。何とか通路を確保。

 翌日の朝の散歩のとき、森の中に点在する木造の家の前にビニールのシートがかかっていました。コテージのような小屋が点在し、その家の周りには同じようにいくつものビニールが竹で組んだ高さ3ⅿ位の枠から垂れ下がっていました。


写真:謎のビニールシート

 多分、夜の暑さしのぎに外で寝るときの夜露除けかなと思って、その話をミャンマー通の同僚に話すと虫取り装置との事。

 翌朝、観察するとちゃんと虫を集めるための照明装置があり、ビニールのシートの底は袋状になっており捕獲した虫が逃げられないようになっていました。


写真:ビニールシートの底

 村の中の朝市に行くと、売っていました、興梠の佃煮や生きているそのままのものも。宿舎の部屋は、たんぱく質がうようよだったんですね、もったいないことしたかな??


写真:売っていました

 ビニールという透明で滑りやすく且つ、安価な材料を使った実に単純にして、機能的な素晴らしい捕獲装置。誰が考えたのですかね?? しかし、興梠だけではなく他の虫も入ると思いますが、どうやって分別するのだろうか?

 思っている以上に高度な技術で、興梠だけが集まる波長のランプや底の袋の深さを興梠の飛翔高さ以上にしたり・・・・・。Myanmarだからなぁ~??





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