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■11連載コラム 阿寒平太の世界雑記

 
 「阿寒 平太の世界雑記」
               by 阿寒 平太

□作者略歴
 つげの会13期生。鹿島建設東京支店勤務後、同社海外事業本部エジプト支店に11年間勤務し、帰国したのち退職。他の建設会社に2年間勤務後独立。現在、建設現場管理工学のコンサルタントとして、国内及び海外の建設工事関連のコンサルタント業務を行っている。「NPOつげの会」設立メンバー。
 世界を飛び回りながら、当ホームページのために原稿を発信。その幅広い活動範囲から、いくつかのコラムを投稿中のため、一部他メディアとの重複原稿となる場合あり。世界の建築・文化から、芸能や工芸、遊興、江戸までその興味は広く、このコーナーも満を持しての登場。乞うご期待。(この項は、新しいものを上に掲載しています。)

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□28 SEKAI雑記の23 ネパール編7
ホウレン草
 


写真:ホウレン草

 ほうれん草の写真から始まったからと言ってCOOKPADではありません。バター炒めなんで考えると、よだれが出てきますが料理サイトではありませんのでお間違いなく。ただ、この稿ではホウレン草について書きましょう。

 私のPCにホウレンソウと打ち込むと、「菠薐草」と出てきます。全く知らない漢字で、この場合は「こいつもなかなか頭が良いな」と思いますが、時には「馬鹿だねー、こんな事も知らないのか!」なんて思う事や、「自分の立場をわきまえろ」と思う事も度々。

 一番、気にくわないのがPCを点けた途端に、画面真ん中に『ようこそ』。これは、他人の訪問などを喜ぶ挨拶語(出典:広辞苑)ではないか!自分のPCをいじって居て、この言いぐさは何だ!お前、「俺の顔認証しただろう?」、だったら三つ指ついて「おかえりなさいませ。お疲れ様でした。肩でもお揉みいたしましょうか?」ぐらい、出来なくても言ってみろ!

 何を話していたのでしたっけ?あっ、そうそう、菠薐草だ!どうも、感情に負けてしまい、失礼しました。さて、此の菠薐草の「菠薐(ハリョウ)」と言うのはネパールの地名だそうです。(出典:広辞苑第六版)

 さてこのネパールの地名ハリョウHaryo或いはホリョウHoryoというのは何処なのか調べましたが、それと思しき所が見つかりません。私が働いていたラリトプール市内でその発音に似た、或いはその発音を含んだ所を上げると「Harisiddhi」「Harihar Vawan」等が見つかりましたが、ネパール全国となると?? ネパール語の『Ha Ryo』という発音は「lost(失う)」「Green(緑)」という言葉に近いそうですが、これに関係する地名なのかも??

 話が飛びましたが、さてこのホウレン草というと野菜ですが、ビジネスの世界では別の重要な意味を持ちます。そうです、組織の中で「ホウレンソウ」というと業務における部下だけではなく組織で働く人の心得、或いは業務推進のポイントです。「報告(ホウコク)」、「連絡(レンラク)」、「相談(ソウダン)」を意味する事は皆さんご存じの通り。

 ネパールで活動していた時の事です。私の仕事の上で、市場調査やCAD図作成などの業務をサポートしてくれるアシスタントのネパール人に、この話をしました。勿論、その時の状況は・・・、打合せと調査が目的で市役所に行かせた所、なかなか帰ってきません。当然、連絡もなし。『自分で自分を管理できなければ、単なる学生としか扱わないぞ!』と叱ってみたものの、これではいかんと、上記の話となりました。

 この話の最中にふと、ネパール語でこんな言葉が見つからないかと相談すると、アシスタントが見つけてくれた言葉が『Beshar (बेशर ベシャール)』。意味は「Turmeric Powder (ターメリック)」で、日本でもカレーライスを作るときや、エスニック料理を作るときに普段からよく使う調味料です。

Be: Bishleshan बिश्लेशन (Report 報告)
Sha: Shampark शम्पार्क (Contact 連絡)
R: Raya राय (Discussion 討議)

 何か部下との間で問題が起きたとき、くどくど言わなくても『Besharを忘れるな!』の一言で、大切なポイントを伝えられるというわけです。

 しかし、辞書を見るとネパール語の場合、発音のアルファベット表記が辞書によりまちまちですので、まっ、頭の固い人たちからは色々と異論が出るかもしれません。それもまたおもしろい物で、そんな議論をしながら、このビジネス・ポイントが理解されたら良いのでは。

 ついでに英語ではと、相談して決めたのは『Red coat』。丁度、アシスタントが着ていたのが、赤いロングのカーディガン。

Re: Report (報告)
Co: Contact (連絡)
T: Talk (相談)

 しかし、『Red coat忘れるな!』と言ったら「今日は黒のセーターです。」なんて言われるかな。何かもう少し適切な言葉がありそうにも思えます。皆さんもお考え下さい。

 単なる言葉遊び、くだらないと言うなかれ!もともと「ホウレン草」もそんな言葉遊びなのですから。だけど言葉遊びも「ホウレン草忘れるなよ!」とか「ホウレン草思い出してくれよ!」等と仕事の世界で気楽に使えるようになると、遊びとも言えなくなります。

 ネパールで仕事をされている皆さん!『Beshar (बेशर ベシャール)』を使って『Nabhulnu Beshar』(ベシャールを忘れるな!) と片言のネパール語を使いながら、プロジェクトが上手く進むようされてはいかがですか? (上手く進むかな??) 

 海外でお仕事をされている皆さん!そこの国の言葉で仕事上の「ほうれん草」を見つけて試されては如何??





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□27 SEKAI雑記の22 ネパール編6
マグマティ川そして産業遺産の橋
 


 ヒマラヤ山脈の南側には、山脈と並行して数本の襞(ひだ)が走っています。昔、この襞の間の今の首都カトマンズの位置には水深500mのカトマンズ湖がありました。そこに流れ込むマグマティ川が運んできた土砂で湖は浅くなり、ついに南側の襞が決壊し今のカトマンズ盆地が出来ました。マグマティ川はネパールを南下し、仏陀が悟りを開き、仏教の生まれた地でもあるインドのビハール州に入り、ガンジス川に合流した後バングラデシュに入り、ベンガル湾にそそいでいます。

 首都カトマンズの東側、マグマティ川の河畔にはパシュパティナート(Pashupatinath)というネパール最大のヒンドゥー教寺院があり、そこには火葬場があり、遺灰はマグマティ川に流されます。マグマティ川が合流するインドのガンジス川河畔のヴァーラーナシー(Varanasi)も聖なる場所として、火葬が行われており、バングラデシュに入ると、その河畔のランガルバンドゥ(LangalBandh)もヒンドゥー教の聖地となっています。ガンジス川は上流から下流までのヒンドゥー教の聖地を結び、聖なる川とされています。


写真:Pashupatinath

 しかし、カトマンズ市内を流れるマグマティ川は下水と化し、黒い川面が発する悪臭が問題になり、またインドではガンジス川の汚染は他の川の10倍にもなっていると問題になっています。何とか聖なる川を「清なる川」にするためには、「川の流れは、何ものをも飲み込み洗い流してくれる」という意識を変える事が必要なのでしょう。

 また、「川を守るためには森を守らなくてはならない」というは鉄則ですが、ヒンドゥー教では「薪を焚く野焼きの火葬によって人は再生する」という思想があり、日本からの白灯油、都市ガス・液化石油ガスによる火葬の技術移転が進んでいないと言われています。ここで火葬技術と書きましたが、火葬には様々な技術が必要です。これは一例ですが、ヒンドゥー教の場合、お墓は持たず遺灰は川に流してしまいますが、日本の場合は遺骨をお骨揚げして、お墓に埋葬するという文化があるため、ただ高熱で火葬すると全て灰になってしまうので遺骨が残るように温度調整する火葬技術が必要になります。

 人体の組成は、水分60%、タンパク質18%、脂肪18%、鉱物質3.5%、炭水化物0.5%です。ですから、燃焼させるには、灯油の場合50ℓ以上の熱カロリーが必要です。しかし、体脂肪が多い場合は、必要熱量は下がってきます。200㎏以上の体重の遺体の火葬の際に体脂肪の燃焼で炉の中の温度が上昇し過ぎて火災になった例があるそうです。

 これは、Wikipediaで拾った情報ですが『2012年竣工のソウル市火葬場は、巨大な美術館を併設し、最新のデザインの外観で、徹底的に環境問題に配慮し、火葬炉も最新鋭技術によりコンピューター制御され、遺骨はロボットが運ぶなど世界でも最新の設備を誇る施設』との事です。

 他の稿でも書きましたが、中国国境の海抜8000mのヒマラヤ山脈に発するネパールの川は、日本の本州の幅ほどの距離をインド国境の海抜70mまで、急流となって山を削り、谷を削り駆け下ります。如何に森を守り、川を守るかは、ネパールの100年の計と言えるでしょう。色々な意識や考え方が変わって早く、聖なる川を守ることが出来るようになればと願っています。

 さて、この稿の次の話題は、まだまだマグマティ川が清く澄んでいた時代に掛かった素晴らしい橋の話です。ヒマラヤ山脈もカトマンズ市の周りの山も、はるか昔に海から隆起した泥岩、頁岩、砂岩、石灰岩などから成る変性岩の層に覆われており、嘗てマグマティ川が刻んだ幾つものの洞窟や峡谷があります。その洞窟群公園(場所名はChovar Gorge) のすぐそばに実に優美な姿の吊り橋がマグマティ川に掛っていました。もともとつり橋は構造的に無駄のない架構で綺麗な形をしているのですが、此のつり橋は綺麗であると同時に風格がありました。


写真:吊り橋

 今は通れませんが、観光年2011年の時は下の写真の様に人を通したようです。


写真:吊り橋2

 橋柱に銘板がありました。製作者はスコットランド・アバディーンのLouis Harper AMI.C.E。橋の名前はChundra Bridge、建設年は1903年6月、橋を掛けた人は大佐 Kumar Nursingh Rana Bahadur C.E.の監理のもとにネパール政府の技術者と記載されています。



写真:橋柱の銘板

 建設管理者名の最後についているC.E.は多分、Chief Engineerの略だと思います。Kumar Nursingh Rana Bahadurは、ラナ家(Rana)の出身の誰かだと思われます。当時は、1846年の宮廷での権力闘争を利用し有力貴族を殺害し当時のラジェンドラ国王を追放して、傀儡スレンドラ国王を擁立し実権を掌握したラナ家独裁政権の時代(1846年から1951年)です。ラナ家は、江戸時代の朝廷・幕府の二重権力関係との類似性から、「ネパールの徳川幕府」と言われ、ラナ家歴代の首相は19発の礼砲で迎えられる地位に位置付けられていたとの事です。

 ネパールの王家やこのラナ家には、何度も権力闘争のお家騒動がありましたが、1885年のラナ家の内紛の登場人物に、General Dhoj Nursingh Rana Bahadurという人物がいますが、Col. Kumar Nursingh Rana Bahadurも彼と血の繋がりを持つネパール軍に関係する人物でしょう。

 Kumar Nursingh Rana Bahadurは、フランスのベルサイユ宮殿にも匹敵するという東洋一の宮殿(Singha Durbar これについては別の稿「アジアのベルサイユ宮殿」でお話しします。) を作った技術者としても名前が挙がっています。

 さて、工学の分野で飯を食う私にとって重要な点は、製作者の方です。その当時、Louis Harperは有名なつり橋の設計者であり製作者で、製作工場を経営していました。名前の後のAMI.C.Eは、イギリス土木学会準会員(Associate Member of the Institution of Civil Engineers)の略です。彼の父親は、1880年代につり橋のパテントを取っています。Louis Harperはその当時イギリスの殆ど全てのつり橋の設計や製作を手掛けていました。しかし、彼の橋が何故、イギリスから遠く離れたこのネパールに?

 ラナ家は、王家との婚姻を通じて、今でも経済面でネパールに対して大きな影響力を持っているそうです( Wikipedia)。この橋が架かった当時、東インド会社が実質的にインド全域を支配しており、ラナ家もその権力存続の為、東インド会社と密接に結びついていました。この橋が掛っている道は、東インド会社がチベットとの交易に必要な重要な通商ルートでした。多分この橋も東インド会社から依頼と言うより、命令でネパール軍の工兵隊が掛けたのでしょう。

 丁度、この頃イギリスでは、銑鉄、錬鉄と言う初期的精錬から1856年の転炉の発明で、粘りがあり強く、錬鉄よりも加工し易い鋼鉄(はがね)を安定的に市場に供給していました。鋼鉄は、線路や建築構造物、造船等に使われ、当時のイギリスは鉄製品の世界の工場として重要な拠点でした。

 此の橋がイギリスで製作されていた頃、日本海海戦(1905年5月27日~28日)で活躍する戦艦三笠(1902年引渡)、戦艦富士(1897年引渡)、戦艦朝日(1900年引渡)がイギリスの造船所で製作されていました。

 時代は正にアール・ヌーボーの時代、鉄骨を使って優美な建築が沢山作られた時代です。1989年のパリ万博で作られた、ガラスのドームのグラン・パレ、エッフェル塔、巨匠オットー・ワグナー設計のウィーンのカールス・プラッツ地下鉄駅(1901年)等は当時アール・ヌーボー時代の鉄骨の芸術を余すところなく表現している傑作です。しかし、そんな時代の中でケーブルを使ったつり橋は、全ての華燭を削そいだ「力学の美しさ」というような別の美しさを誇っていたと思います。しかし、此の橋は橋柱の先端には、アール・ヌーボー的な飾りをチラッと見せている、そんな風情が此の橋の風格を作っているのでしょう。


写真:カールス・プラッツ地下鉄駅

 色々と話が飛びますが、この優美な橋は、思いを色々な話題に連れて行ってくれます。

 Louis Harperは、ネパールでもう一つ、今現在も使われているというSundari Footbridgeという橋を設計製作しているとの事で、探しましたが見つかりませんでした。

 遠くイギリスからもたらされたこの素晴らしい産業遺産を、ネパールが大切に保存してくれる事を切に望んでやみません。






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□26 SEKAI雑記の21 ネパール編5
幸福度世界一?
 


 ネパールの山向こうの国ブータンが幸福度世界一と話題になりましたが、幸福度というのは、どうやって算出するのかとふと不思議に思い調べました。

 この『ブータンが幸福度世界一』という文章は、全くの私の間違いでした。普通、幸福度と言うと、世界幸福度報告(英語: World Happiness Report)で述べられているものです。

 この世界幸福度報告は、国連の持続可能開発ソリューションネットワークが発行する幸福度調査で、(1)GDP、(2)社会的支援(困ったときに頼ることができる親戚や友人がいるか)、(3)健康寿命、(4)人生で何をするかの選択の自由度、(5)寛容さ、(6) 政府の腐敗の6つについて調査して国際的なランキングを示しています。

 因みに調査対象155ヵ国中、日本は53位、ブータン84位、ネパールは107位です。

 ところで『ブータン云々・・』というのは、1972年にブータン国王が提唱し、ブータン王国で初めて調査され、国の政策を決めるために活用されている国民総幸福量或いは国民総幸福感の尺度「国民全体の幸福度(GNH Gross National Happiness)」です。
GNHは 1.心理的幸福、2.健康、3.教育、4.文化、5.環境、6.コミュニティー、7.良い統治、8.生活水準、9.自分の時間の使い方の9つの構成要素からなる72項目の指標に1人あたり5時間の面談を行い決めるとの事。

 因みにブータン国立研究所が2010年に行った調査では、ブータン国民の平均幸福度は6.1で、日本の6.6を下回っているのだそうです。(日本ってそんなに幸福な国だったんだ!)

 さて、本稿のネパールについての今回の話題ですが、ネパールに暮らす人の幸福度の話ではなくて、ネパールでのうのうと暮らしている「動物の幸福度」の話です。私の見る限り、「ネパールで暮らす動物のGNHは、日本の動物たちより高いことは確実です」。それではその状況を幾つかお話ししましょう。勿論、動物のGNHを判断するに当たり、聞き取り調査は行っておりません。あくまで私の主観的な観察から、確固たる信念をもって評価したものである事をお断りしておきます。

 ネパールは、お釈迦様が生まれた国で、その仏教を生み出したヒンドゥー教の国ですので、牛(Cow或いはBull)は神聖な動物とされており、車道であろうと歩道であろうとのんびりと横たわっています。当然、彼らのGNHの項目の中で、「3.教育」を除いて全く問題はないはずです。


写真:道を悠々と歩く牛たち

 ただ、我々日本人からすると、大いなる差別があるのではないかと思う部分があります。肉屋に行きますと堂々と牛肉は売っているのです。それはバッファローBuffalo(アメリカの平原を闊歩しているバイソンの事ではなく、アジア各国の水田で働いている水牛)の肉です。同じウシ科にもかかわらず彼ら水牛のGNHの項目の中で1.心理的幸福や8.生活水準、9.自分の時間の使い方、などは最低でしょう。


写真:歩道上の犬たち

 ネパールの街のいたる所で、牛だけではなく歩道には沢山の犬がドデンと横たわっているのを見ます。チン、ポメラニアン、プードルなどそんな可愛らしい犬ではなく堂々とした犬が、『私の世界はここだ!』とばかりに歩道のど真ん中でお眠り遊ばされています。その堂々たる風情、実に立派です。

 そこを通る大勢の人々は、そこに犬が寝ていることを当然と考え、起こしたりもしないし勿論、蹴とばすなどという失礼な真似もせず、跨いで通って行きます。犬のおやつ用の乾燥した鶏のささ身を鼻先に投げても『こんなもの食えるのか?』といった感じで匂いをかぎ、それからおもむろに食べますが、決して尻尾を振って感謝の意を表すことはしません。如何にも『お前が落としたから食べたまでだ。』という感じ。

 どうも彼らの理論としては、自分の平安にたいして人間が抵触しない限りは不可侵であるという事のようです。この不可侵条約を人間も含め周りの動物が守っているのでしょうか、彼らが吠えている声を殆ど聞いたことがありません。


写真:歩道上の犬と猿

 私が住んでいたアパートの近くの大きな寺院にたくさんの猿が住んでおり時折、アパートの庭にまで出没していました。

 何時も朝になると、路上で猿にかぼちゃの種などの餌を近所の人が撒いているのですがその時、幾ら沢山の猿がいようと犬は「われ関せず」で、猿を見ても吠えもしません。

 日本では「犬猿の仲」という言葉が有ったり、長野県では果樹園などの猿害を防ぐため犬を飼育・訓練したりしていますし、各地に犬と猿が争う昔話があります。

 多分、ネパールの犬はそんなDNAを持っていないのでしょう。人間と犬との不可侵条約は、猿と犬の間にも結ばれているのでしょう。

 しかし、猿と人間との間にはどうもこの不可侵条約は結ばれていないようです。私が近くの野菜市場で買った野菜を入れたビニール袋を見事、猿に取られたことがあります。周りに居たネパール人は、「よくあるんだ。」と言っていました。だからと言って、ネパールの人は猿を駆除するという事はありません。猿と人間との間の不可侵条約は、片務的なようです。一方、市場の肉屋や魚屋が低い台や地面に広げたシートの上に、商品を並べていても犬はそれを咥えて逃げるという事はありません。

 こういう状況から判断すると、猿は勝手気ままにふるまい、追い払われもせずそのGNHは、相当高そうです。一方、ネパールでは多くの犬が狂犬病にかかっていると言われていますので、彼らのGNHで2.健康、3.教育、という項目では低い評価でしょうが、他は非常に高いと思われます。


写真:店の穀物をついばむハト

 私の毎日の通勤路に米、麦などを売っている穀物屋さんが在り、前を通るときは何時も若い店主が新聞を読みながらコーヒーを飲んでいます。
所が何時も、店先の米袋の上にはハトや、雀の位の小鳥が何時も数羽群がり、米をついばんでいるのです。すぐそばにいる店主に聞くと、『大した量でもないから。』というおおらかな返事。
お釈迦様が生まれた国だからなのでしょうか兎に角、ネパールの人は動物全般にわたって優しく接しているのです。これが「ネパールで暮らす動物のGNHは、日本の動物たちより高いことは確実です」と述べた所以です。







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□25 SEKAI雑記の20 ネパール編4
インド亜大陸は、ひょっこりひょうたん島?
 


 『昔々、Once upon a time インド亜大陸は、アフリカ大陸の東の端を出発して、5000万年から7000万年という気の遠くなるような時を経て、7500㎞の長い旅の果てに、吸い寄せられるようにチベットの地にたどり着いた。』などと書くと、今でも我々の心の中で長い旅を続けている「ひょっこりひょうたん島」のようなイメージが浮かびます。

 まッ、これは全く私の個人的なイメージで、勿論その頃はチベットという国もありませんし、「ぷかぷかと」というイメージではないのは確かですが、こう考えると何かロマンというか楽しい夢を感じます


図:インド亜大陸

 ジュラ紀(1億9500万年~1億3500万年前)後期にゴンドワナ大陸がアフリカから分離し、白亜紀(1億4550万年~6550万年前)にさらにインド亜大陸がマダガスカルから分離・孤立し、北に移動しつづけ、ついにユーラシア・プレートにめりめりと衝突。その後もこの押しくら饅頭は現代まで続き、その結果できたのがヒマラヤ。現在でもこの押しくら饅頭は続いておりその結果、ヒマラヤは今でもその高さを増しつづけています。

 マダガスカルは、現時点ではアフリカから500kmの距離ですが、先に離れて行ったインド亜大陸を追うように、北東に向かって移動し続けています。

 この押しくら饅頭の最前線が、ネパールです。ユーラシア・プレートもインド亜大陸プレートも共に大陸型プレートで、比重が同じなため双方一歩も引かずがっちり四つ。その結果、ぶつかったあたりの筋肉が押されて盛り上がった、そこがヒマラヤです。

 ユーラシア・プレートの東端にある日本列島も、太平洋プレートやフィリピン海プレートとぶつかっていますが、ユーラシア・プレートが大陸型プレートに対して、太平洋プレートとフィリピン海プレートは海洋型プレートです。この海洋型は、大陸型に比べて比重が重いので、ユーラシア・プレートの下にもぐり込もうとしています。

 大陸型プレートの厚さは、100㎞位で、太平洋プレートは海の下の海嶺で湧き出ている所では10㎞位だそうですが、日本にぶつかっているあたりの厚さは70㎞位だそうです。今のところまわし充分、がっちり四つに組み時々、ユーラシア関が筋肉を震わせて何とか踏ん張っていますが、ついに太平洋関が潜り込み成功、なんていう事になると日本列島は海抜7万mの高地に。(なんていう事はないか!)

(ご専門の方からみると「何をばかなことを!」と言われるのでしょうが、素人はちょっとききかじったことで、面白い夢を見るものです。御免なさい。)

 「日本沈没」という小松左京の名著がありますが、その名著の最後のエピローグの章は、『北半球の半分をおおうユーラシア大陸の東端で、いま、一頭の竜が死にかけていた。』という文章で始まり、日本列島を竜になぞらえて、火を噴きながら悶え苦しんで海に沈んでいくさまが描かれています。この部分は、実に迫力があり桃中軒雲右衛門に語ってもらいたいと思うほどです。

 彼はこの名著の章ごとに日本列島のどの部分がどんな形で変化し、沈んでいくのかを計算しシミュレーション・モデル作ったそうです。その当時では珍しかった、四則演算の機能位しかできないにも拘らず数十万円もする13桁表示の計算機を購入し、それを駆使してそのシミュレーション・モデルを作ったのだそうです。しかし、9年間という長い著作期間の後、この名著が出来上がる頃には、5千円位でその計算機は買えるようになっていたそうです。しかし、すごい人が考えることは、私が考えるような単純な相撲モデルではないようです。

 さて話をネパールに戻しましょう。私は、このユーラシア・プレートとインド亜大陸プレートが正に其の四つ相撲を取っている土俵に登って、四つに組んでいる所を見てきました。以下がその相撲観戦記です。(これからの文章も私が書くのですから、勝手に単純な相撲モデルを使いますよ。)

 現在、中国に占領されているチベット国とネパールとの間に8000m級の山々を抱えるヒマラヤ山脈が走っていますが、一部はネパール国内に入り込んで、アンナプルナ・ヒマラヤ山脈を形作っています。そのアンナプルナ・ヒマラヤ山脈の北側に広がっているのが、嘗てのムスタン(Mustang)王国です。この王国は、2008年にネパールに併合され、なくなってしまいました。

 ネパールには、ダサイン(Dasain)という10日間の秋祭り休暇があります。その休暇を利用して、ムスタン(Mustang)王国の首都ローマンタン(Lo-Manthang)までトレッキングしました。(トレッキングのお話は別の項でお話しします。)

 アンナプルナI(8091m)の北側に回り込むと、そこは正にムスタン王国の入り口。そこにカグベニ(Kagbeni)という村があります。そこが正に四つ相撲の土俵。チベット国境からムスタン王国を縦断しアンナプルナ山脈の裾を巡って流れるカリ・ガンダキ・ナディ(Kali-Gandaki-Nadi)河が其の四つ相撲をまざまざと見せてくれます。


写真:左側がインド亜大陸側で、右側がユーラシア大陸側。・・・だと想像しています



 南から押してくる地層と、北でがっしりとそれを受け止める地層が、正に四つに組んでじっと土俵中央で動かず聳え立っていました。

 そこは正に悠久の時の流れの地球の歴史の中の一齣を見せてくれている場所でした。








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□24 SEKAI雑記の19 ネパール編3
カトマンズの音、音楽
 


 カトマンズの朝は、暗いうちから色々な小鳥のさえずりから始まります。4月に入るとすぐにカッコーの声が聞こえ始め、普段から騒々しい街の印象とは違ってやはり、山に囲まれた小さな盆地なのだなと気付かせてくれます。

 5時頃に街のそこかしこから鐘の音が聞こえてきます。通勤の途中に、道の傍らにある御堂の鐘をそれぞれの人が、それぞれの思いを込めて鳴らして通り過ぎて行くのです。人によって鳴らし方も様々で、遠慮しているように弱く、一つカーンと鳴らす人もいれば、カン、カン、カン、カンと大きく何回も、まるで競輪の最終コースの様に鳴らす人も。

 これは力仕事をしている男で朝、奥さんとケンカしたかな、これは若い女性かな、など一つの鐘の音が様々な場面を贈ってくれます。



写真:アパートの近くのお堂と鐘

 次第に物うりの声が聞こえてきます。ビールの空き瓶回収、新聞紙の回収、ごみ集め、それから野菜や果物の売り声。

 昔、日本でも色々な売り声が響いていました。いい声だなーと聞き惚れる様な声もありました。その頃は、自転車の後ろの荷台に木の箱を括り付けて、肉声の売り声でした。まさに「行商」でした。今では小型トラックに無粋なスピーカーの売り声。可愛らしい売り声に、つい声をかけると、車から降りてきたのは私と同じようなむさくるしい爺。いやですねー、売り声の詐欺は!

 子供の頃に住んでいた九州の博多の朝は、必ず「おきゅうと~、おきゅうと!」という売り声で始まりました。「おきゅと」というのは、海藻色をした味は正に「ところてん」で博多のソールフードとも言われるものです。獲れたての魚も一緒に行商し、その場でさばいてくれるので冷蔵庫などない時代でしたが、新鮮な魚を毎日食べることが出来ました。何かそんなノスタルジア(「思郷病」森鴎外はこんな当て字をしていました。)に浸っていますと、このカトマンズの街の様々な売り声が大切に思えて、何時までも続いてくれたら思ってしまいます。

 そのうちにアパートの北側にあるサッカー場の周辺を走るサッカー選手チームの声が聞こえ、次第に街のざわめきが大きくなります。街が「あー、良く寝た。さあ、動き始めるか!」と言っているように。

 そのサッカー場でサッカーやクリケットの試合や、特に音楽関係のイベントが有る時は、色々な音楽が流れて来ます。殆どが西洋音楽、それも時にはジャズ、時にはポップス。どうもネパール特有の民族音楽については寡聞にして知りませんが、それと思しきものはあまり流れてきません。しかし、音楽が流れて来ると言うのは何か心が和んで休まります。

 此の国では色々な所に細かな音や音楽が有ります。あまり大型の開発プロジェクトがないせいか、「槌音高き建設の響き」等と言う無粋で、遠慮会釈もない建設工事の音もしません。勿論、市街電車や鉄道の騒音もしませんが、一つだけ嫌な音が混じります。ピーピー、プープーと車やバイクが小癪な感じで泣き叫ぶ。

 ネパールの運転手の技というか、手並みは素晴らしく、車間5㎝(いや、前後ではなく横の車との間隔ですよ。) でも何の躊躇もせず入り込んできます。しかしなんで、あんなにピーピー、プープー警笛を鳴らすのか不思議に思います。日本であんなに黒塗りベンツに向かって鳴らしたら、すぐにヤクザさんにきついお仕置きを受けるね、多分。

 将来、電気自動運転の車ばかりになると、警笛などというものはいらなくなるので全く無音、これも何か薄気味悪いね。多分、そのときは鳥の囀りのように、ピーチク・パーチク、車同士が情報交換するかもしれないね。

 人の生活の中で音楽は大切で、なくてはならないものだと言われ、音楽と性犯罪率は比例していると言われています。事実、パキスタンで仕事をした時、街中で聞こえる音というのは、一日5回モスクから流れるコーランの響きだけで、殆ど音楽と言う類の音は聞けない状態でした。妻子から遠く離れて、一緒に仕事をしていた若いスタッフは「危なくて妻子を残して来られない。」と両親や姉妹の所に預けてきていました。新聞でも連日、そんな犯罪記事が出ており、其の率が多い事を報じていました。

 私が働いていたパキスタンの街は、首都イスラマバードからカラコルム街道を車で6時間ほど行った「バタグラム」という「バタグラム県」の県庁所在地で、行った当初はジャズやクラシック音楽のカセットテープやCDを売る店が何軒かありました。所が川向うまでタリバンが勢力を伸ばしてきた頃には、早々に店を閉めてしまい、音楽の元は全くなくなってしまいました。そうこうするうちに、一晩で外国援助機関の事務所が3か所も一度に爆破され、私も慌てて逃げだしました。これも音楽がないという結果なのかもしれません。

 所が同じイスラムの国のインドネシアは、世界で一番イスラム教徒が多いと言われていますが、街だけではなく、田舎でも色々なジャンルの音楽が流れ、若者たちは色々な楽器を奏で、女性の服装は、開放的な状態ですが性犯罪は少ないと聞きました。


写真:インドネシア・シムルー島で楽器をもって歩いている若者

 仏教の声楽で「声明(しょうみょう)」というものが有ります。梵唄(ぼんばい)とも言うそうで余り抑揚の無い音が延々と続きます。16世紀頃のグレゴリア聖歌が長崎の隠れキリシタンの島で「歌おらしょ」(「おらしょ」はラテン語やポルトガル語の「祈り」と言う意味の「Oratio」)として残っていますが、この旋律は、声明ともお遍路さんの御詠歌にも良く似ています。また、エジプトで古代キリスト教と言われる「コプト教」のミサの音楽も、ボスニアヘルツェゴビナの東方正教のミサの音楽もこれによく似ていました。祈りの旋律は、基本的には同じルーツの音階を使っているのでしょうか?

 人の猛々しい心を平安に導く宗教と音楽は深く結び付いています。このネパールには、色々な音や音楽が生活の中で息づき、人の生活を豊かにしている様な気がしてなりません。休日の朝、そんな気持で音を聞いていました。

 皆さんが外国旅行でどこかの町に行ったとき、気を付けて耳を澄ませてそこに音楽が流れているか聴いてください。もし、音楽が聞こえてきたらまあ、安全と思ってください。勿論、これは私の判断基準ですが。







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□23 SEKAI雑記の18 ネパール編2
国勢調査
 


 私がネパールでの活動期間中に借りていたアパートの台所の食卓の上に、小さな可愛い人形が置かれていました。多分、以前の住人が置いて行ったものなのでしょう。幼い花嫁姿の女の子とタキシードの裾を捲りあげて、腕まくりして女の子を守る様に傍に付き添っている幼い花婿の男の子。其の様子が微笑ましく机の上に飾っておりましたが、ある時から「可哀想になあー」と見るようになってしまいました。なぜか・・・?


写真:食卓の上に会った可愛い陶器人形

 ネパールでは、2011年6月に10年に一度の国勢調査が実施されました。JICAでは、この国勢調査の実施や分析の専門家を派遣して支援しました。私のアパートの下階に、私の先輩のJICAのシニア海外ボランティアとして統計局に派遣され、このシステム作りから分析作業を支援しているK氏が住んでおり、この国勢調査について色々と伺いました。(彼は、長野オリンピックの運営コンピューターシステムを作った方だそうですが、JICAというのはすごい人を見つけてくるものですね。)
 国勢調査については、国連から調査項目の指針は出ているのですが、国によって其の調査内容もその数も違っています。日本は22項目、アメリカは10項目、イギリスは40項目、そしてこのネパールは、27項目。国によって調査項目の数は大きく異なっていますし、その調査内容も国によって大きく異なっています。

 このネパールの国勢調査の中に、日本でそんな質問をしようものなら顰蹙(ひんしゅく)をかいそうな項目があります。ズバリ、最初に結婚した年齢を聞いています。婚活と言う言葉が出来、結婚年齢が上昇している日本では、なかなか聞けない質問の様な気がしますが、同時にその質問の集計結果が統計的にどんな意味を持つのだろうかと、考えてしまいます。(多分、人口の将来予測かな?そんな訳ないよなー。)


表:ネパールの国勢調査の初婚年齢調査結果表

 さて、その結果ですが、10歳未満から5歳毎に分けられ50歳以上まで、男性、女性それぞれの初婚年齢ごとの人数が記載されています。なんと10歳未満で結婚した男子は22,865人、女子は115,150人。初婚年齢が10歳から14歳までの男女合計は138,015人、10歳以下を含めると、既婚者の11.3%の男女が14歳以下で結婚しているのです。それも圧倒的に都市部より田舎の方が多いのです。
 正にこの微笑ましかった人形が現実味を持ち「可哀想になー!」となった次第。そのような目でこの人形を見ると、子供たちの目が笑っていないし、如何にも『まーだ!疲れちゃったよー、もう遊びに行ってもいいでしょー。』と言っている様にも思えます。

 其の他、未婚者人数、一回或いは複数回結婚しているそれぞれの人数、再婚者人数、男女寡(やもめ)人数、離婚者人数が記録されています。しかし、質問された方は『私の勝手でしょう!』と言いたくなるだろうなー。

 それ以外に此処ネパールの国勢調査項目には我々、日本人にはなじみのない項目が並んでいます。

 まず、建物についてですが、建物の基礎の種類(泥目地煉瓦、セメント目地煉瓦、杭使用RCC、木杭等)、外壁の種類を質問している項目があります。これは地域防災と耐震技術を担当していた筆者には実に有効な情報でした。只、公表されている単位がward(日本で言うと区)レベルで集計されており、もしその下のcommunity(日本で言うと町)レベルであればより詳しく実像に迫れるのだが、と少し残念でした。

 次に日本と違う項目は、飲み水についての質問です。水道水、井戸水、雨水、河水などの項目に分かれ、井戸水の項では、蓋をしている井戸か、カバーをしていない井戸か細かく尋ねています。はるか昔から国を統治する者にとって民に十分な飲み水を与えるという事は国の安定のためにも、公衆衛生の為にも重要な調査項目です。(昔、ネパールの治世者がどうやって民衆に水を与えていたのかは、他の項でお知らせします。) ただ、私たち日本人は余りにも便利な環境の中で生活しているために、こんな単純で基本的なことですが最も重要な項目を忘れがちです。

 次に日本と異なる点は、料理に使う燃料の種別を尋ねています。薪、石油、プロパンガスなどの種別を尋ねていますが、少し変わっている物として、「牛の糞」や「その他」という項目もあります。ネパールだけでなく隣国のパキスタンでも、田舎に行くと燃料にするため丸く平らにした牛の糞を、石の上で乾かしているのをよく見かけました。

 「その他」という項目には、太陽熱利用も含まれますが、日本で考えるような太陽熱を電気に替えるというシステムではありません。これは、パラボラ・アンテナのような形の集光機で熱源を得て、煮炊きにその熱を使うものです。実に単純な仕組みで光が集まる真ん中に鋳鉄製の鍋を置いて直接温める仕組みでしたが意外に早くお湯が沸くそうです。

 燃料政策に失敗したアフリカ大陸の東側にあるマダガスカルでは、大部分の樹木が薪に使われ、丸裸になった土地や畑の土は川に流れ、川の河床が高くなり、水田地帯が沼に替わり、食料の米の生産量も落ちました。燃料問題は、国土を維持していくうえで重要な問題です。

 ネパールの国土の幅は、ほぼ日本の本州と同じくらいですがネパールの場合、北の中国国境から南のインド国境まで最大標高差は8,000mもあります。如何に国土全体の表土を保つための樹木保全が必要なのか、わかる気がします。


写真:太陽熱調理器。集光機の中央に鍋が置かれているだけです。

 日本の国勢調査の項目は、世帯の人数、生年月、国籍や仕事の従事の有無、従事地や通学地などがありますが、住居については賃貸か持ち家か或いは一戸建てか共同住宅か、床面積などを訊いています。また、5年前にはどこに住んでいたかを尋ねる項目もあります。これらの項目を見ていますと、日本の国土の中で、人がどのように生活し、移動しているのかをダイナミックに把握しようという意図が判ってきます。

 しかし、いま社会的に問題になっている女性の社会進出や、労働力の問題、所得格差、貧困の問題などをより細かく把握し、日本の将来を見据えた方針を確立のためには、国勢調査項目は見直す時期なのかもしれません。日本の政府が莫大な借金を抱えた今、従来の方法や考え方に疑問を持たなければならない時なのではないでしょうか。特に日本では、10年毎の国勢調査以外に5年毎にも調査(この調査の調査項目は17項目です。) をしていますので、より細かく実情の把握が出来るシステムになっています。

 ネパールでも日本でも、国勢調査の項目の中に、都市部の一所帯の家族人数を調べている項目があります。日本の場合、全国平均で2.54人、それに対してネパールの数字は4.32人。最近、ネパールでも小家族化が進んでいると言われていますが、まだまだ何か昔ながらの家族の存在がある様で、ホッとしました。

 兎に角、この国勢調査の数字を読んで行くと、私の下衆の勘繰りも満足させてくれますし、色々と興味が尽きません。また、色々と日本やそれ以外の国との比較をやり始めると面白い物が次々と出てきそうです。今後も、ネパールの国勢調査結果を読み解きながら面白い事が見つかりましたら、この「阿寒平太の世界雑記」に書いていきます。







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□22 SEKAI雑記の17 ネパール編1
日本の消防車、消防団そして世界遺産
 


 ネパールでの活動で改めて感じた日本の消防団や世界遺産のお話しです。
 私は2012年から2014年の2年間、JICAシニア海外ボランティアとしてネパール国首都カトマンズ市のすぐ南に隣接するラリトプール市都市開発部に勤め、市の耐震化計画や防災施策の実施事業を支援しました。
 ラリトプールというのは「美の都」という意味で、市のパタン地区は,地区中心にある王宮を含めて世界遺産ですがその殆どが木造建築です。しかし、その防火対策は消火器すら充分にないという状況です。



写真:ラリトプール市世界遺産の王宮広場
 日本の都市で市の中に同じ様な歴史保存地域があり、人口・面積がほぼ近い都市を選ぶと、金沢市と倉敷市が挙げられます。話が少し硬くなりますが、世界遺産を有する京都及びこれらの都市と、ラリトプール市の消防力を比較したものが次の表です。

表:ラリトプール市と同規模の日本の都市及び世界遺産都市との比較

都市名

人口()

面積()

消防署及び出張所(か所)

消防署員()

ポンプ車

()

消防団員()

消防団ポンプ車

()

ラリトプール市

466,784

385

1

11

5

0

0

倉敷市

477,463

355

4

120

10

1,945

48

金沢市

466,189

468

12

416

17

1,101

17

京都市

715,444

828

48

1,943

59

4,247

6


 この表から、ラリトプール市の消防力が、いかに貧弱かが判ります。しかし、それ以上に日本の各都市の消防体制のすごさに驚きます。それではと、私はラリトプール市の消防力を何とか強化しようと活動しました。(この活動の様子は、BS朝日で放映された「世界に役立つ日本人」で紹介されています。この抜粋を添付いたしましたので其方をご覧ください。)
パタン王宮地域の消防力強化計画を策定の際、調査の為に訪れたそのラリトプール市消防署で、日本の消防車を見つけました。消防署の話では、この消防車は自動車駆動用のエンジン以外に消防ポンプ専用のエンジンを搭載しており、水源が確保できる所では、最近インドから購入した大型の3.5TONの水槽付消防ポンプ車より送水能力もあり働くそうです。


写真:日本から贈られた小型消防車

 しかし、不思議なことに消防車の扉には、鴨島15消防分団と記載され、なぜか上の認識灯には鴨島10分団と記載してあります。鴨島町と言うのは四国徳島の吉野川市にありますが、まだ現役のこの消防車の写真を吉野川市役所に送ると、その話が掲載された広報誌を送ってくれました。広報誌「広報よしのがわ」には『徳島ネパール友好協会が、首都カトマンズ近郊のダバケル村開発委員会に小型消防車を贈り、感謝の額を貰った。』と載っていました。

 消防車の扉や認識灯の違いの不思議は、市町村の統廃合で鴨島15消防分団が10団分に変わり、マグネット・シールを張り付けて使用していたが、贈る際にシールをはがしたとの事。これで、この不思議は判りましたが、それ以上に驚いた事を教えてくれました。
 2011年に徳島ネパール友好協会がこの消防車を送った際に、陸送先遣隊(海のないネパールにはまずインドのムンバイ港に送り、それから約1,600KM以上の距離を陸送しなくてはなりません。) を含め、はるばるネパールに運転訓練の為に6人の技術者を送り、運転整備の訓練をしているのです。中古の消防車、動いて初めてその価値が生まれる物を、相手に贈って使ってもらう際のルールと言うか、心遣いがこんな所にも生きているのを知って、何か安心しました。
 日本はドイツと並ぶ世界に冠たる民間消防組織の先進国で、民間消防組織の消防分団がこんな消防車まで持っています。前掲の表のようにさすがに京都の防災体制は鉄壁です。京都は昔ながらの狭い路地が碁盤の目のように入り組んでいるので、この狭い路地で初期消火活動が出来る500ℓの消火用水を積んでいる超小型の消防車も開発し備えています。京都の消防体制は、他の都市と少し違って、より広く市民を巻き込むような形で、市内の沢山の小学校が消防機材倉庫になっており、地区の消防団はこれを起点に活動しています。

 ラリトプール市のパタン地域は世界遺産ですが、京都そのものは世界遺産ではありません。京都市内或いは周辺にある17か所の社寺或いは城が世界遺産です。
 京都は、1788年1月30日に発生した「天明の大火」で当時の京都1976町の73%、1424町が消失、37神社、201寺も同様に消失し、鎮火したのは2月2日早朝でした。この火事は放火だったそうですが、もし、多くの社寺や街並みが消失していなかったら、まさに今の京都の中心街そのものが世界遺産になっていたことでしょう。下の右図は、当時の京都市街地とその消失部分(赤線の内側)の図ですが、この範囲の中にある二条城だけが現在、世界遺産指定されています。左図は京都の世界遺産配置です。


写真:当時の京都市街地とその消失部分
(右図中央左の赤丸が二条城)

 この時、活躍したのが1722年に制度が確立した常火消(幕府直轄火消)です。出火の報を受け取ると直ぐに二条城(幕府の京都支配の出城)に駆けつけ、大規模な延焼を何とか食い止め、次に御所の消火へと向かいましたが、時遅く御所は全焼。この活躍で、二条城は世界遺産として残ったと言えます。
 華麗な加賀鳶で有名な大名火消や、町火消のシステムも同じ頃に創設されました。江戸では明暦3年(1657年)のいわゆる「振袖火事」をはじめ度々の大火に見舞われまた、幕府のお膝元という事もあり、すでにこの時点では常火消、大名火消、町火消ともに機能していました。しかし、京都ではまだまだ町火消の活動は定着していなかったようです。
 民間の消防組織である消防団が、江戸時代の町火消から発展して今の形になるまで400年という長い歳月が掛かっています。今、やっと始まったばかりのネパールの消防団が、日本の消防団のように活躍するのは何時の事なのでしょう?






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□21 SEKAI雑記の16
道楽者の弁 Dilettant's mumble
 


 毎月その発売日(毎月5日と20日)が待ち遠しい私の愛読書「ビック・コミック・オリジナル」(マンガ雑誌)に「どうらく息子」(尾瀬あきら作)と言うマンガが掲載されています。幼稚園の保育士をしていた青年が、落語に目覚め、今の時点ではまだ前座ですが落語家真打を目指し、苦労して成長するさまが描かれています。落語家と落語噺の世界が克明に描かれ、実に面白いお薦めのマンガです。

 しかし、なぜ苦労しながら落語家の真打を目指す青年が道楽息子なのでしょう。落語の噺の道楽息子は、大店の跡取りが吉原の花魁にいれあげて勘当になるという筋でも描かれるように、余り良い意味合いでは使われていません。所謂、放蕩者です。放蕩とは、「酒色にふけって品行がおさまらないこと」です。

 広辞苑では「道楽」の項に「道を解して自ら楽しむ意から」とあり、それほど悪い意味の言葉ではなさそうな表現から始まって、次に「本職以外の趣味などにふけり楽しむこと。また、その趣味。」と解釈が出て、その次に「放蕩者のすること」と書いてあります。 この「道を解して自ら楽しむ」、言い換えると「その道の真の楽しさにのめり込む」と言う意味で、この「どうらく息子」と言うマンガが描かれていると、私は解釈しています。

 さて、この稿の「道楽」は、楽しさ一杯の「放蕩者のすること」と言う意味で書いております。昔、道楽者の行状は「呑む・打つ・買う」と言う事に決まっておりました。いわゆる酒色と博打です。この三つが、人に快楽や刺激を与える最たるものだからでしょう。一つではなく複数の楽しさと言う事も快楽や刺激を何倍にもする重要な要素です。

 昔、ラスベガスのホテル・フラミンゴやスターダスト等の賭博場で遊んだ事があります。食事をしながら煌びやかなショーを見て、その後で賭博場に入ると、広大と言う表現が適切な煙草で煙っているフロアーにカードの台が無数にあり、バニー・ガールが飲み物を配っています。壁側にはガラス張りのバカラのゲーム室があり、上品な人種が高額なゲームを楽しんでいました。男性トイレに行くルートの空間には、映画女優なのではと見紛う程の美女たちがたむろし、声をかけてきます。まさに「呑む、打つ、買う」と言う放蕩道楽の極致という世界でした。

 今では重要無形文化財、ユネスコ無形文化遺産と言う何か高級な趣味の様になってしまいましたが、「お能」も「歌舞伎」も含めて大衆演芸、芸能は全て酒を飲みながら、食べながら、おしゃべりをしながら、そして権力者は美女を傍に侍らせ、芝居茶屋で役者と時を過ごすという幾つもの刺激を含んだ道楽でした。

 江戸城大奥の御年寄・絵島は先の将軍の墓参りの後、役者・生島新五郎と芝居茶屋で宴会(密会?)し、江戸城への帰参門限に遅れた事で起きる「絵島生島事件(1714年)」。歌舞伎や小説、映画の世界でも有名ですが、この事件のおかげで、1500人余の人々が、遠島、斬首ほかで罰せられ、江戸4座の芝居小屋の一つの山村座は廃座、芝居小屋は簡素な造りに改築させられ、そして夕方の公演は廃止になったそうです。この事件と比べると、どこかの国の大統領や首相や国会議員の艶話など些細な事と思うほどです。

 さて、煙草好きにはパッケージに「健康に影響あり」と書かれようが、命に代えてもと言うくらいに煙草は大切な道楽です。しかし、今では禁煙の波に押されて肩身が狭くなりましたが、東日本大震災、国債の格下げと言う国難山積みのこのご時世に1本吸うごとに13円のたばこ税(マイルドセブンの場合)を納めて頂いている事を考えると、吸わない私は有難いと思ってしまいます。


写真:エジプト・カイロの喫茶店で水煙草を楽しんでいる男

 大相撲でも2005年初場所から全面禁煙になりましたが、それまでは相撲と煙草は切っても切れない仲と言うほど密接な関係でした。現在の国技館(1984竣工)を造るとき、「沢山の人が集まる室内では禁煙」(1962年施行の火災予防条例)と言う法律に対して、相撲協会は頑強に抵抗し国会議員まで動かし、人の楽しみとは何かと言う事を追求した結果が喫煙できる国技館でした。 相撲を見ながら酒を飲み、食事をし、タバコを飲み、時には相撲茶屋に行って遊ぶ、これが相撲という神事を民衆の側から見た演芸の世界でした。

 なぜ、タバコの喫煙が相撲という楽しみとそれほど強く結び付いていたかと言いますと、相撲が始まり、そして盛んになった江戸時代は、喫煙率が非常に高かったからです。文政3年(1820年)に江戸の煙草屋三河屋弥平次が記した「狂歌煙草百首」には、喫煙率は97%以上と記載されているそうです。 極端な言い方をしますと老若男女、全て吸っていた。客が家に来た時、お茶を出す前にまずタバコ盆を客の前に出すのがあたりまえでした。ですから相撲と言う楽しみと喫煙と言う楽しみは切れなかった。(しかし、当時はキセルで現在のような両切りではありませんし、火の始末に非常に厳しかったので咥えタバコはなく、常にタバコ盆を傍において喫煙しました。)

 お茶も道楽の一つですが、煙草と言う道楽とも結びついていました。裏千家も含めて各お茶の流派には、それぞれ煙草盆の火入れ(煙管に火をつける炭入れ)の炭のいけ方、灰のならし方が作法としてあり、待合や腰掛には煙草盆が必ずおかれていたそうです。亭主は小間の薄茶席、広間での席でも、煙草盆の配慮が必要と書かれています。

 現在、「落語」の演芸場ではタバコは吸えませんが、座席の前に小さなテーブルが出せるようになっており、其処にビールと弁当を置いてのんびり見るのが落語の楽しみでしょうか。

 日本だけでなく海外の演芸、芸能も同じように「呑む・打つ・買う」という事に強く結びついていました。オペラ鑑賞と言う道楽でも、まさにこの「呑む・打つ・買う」という事に強く配慮して客席が設計されていました。パリのガルニエのオペラハウスも、ミラノのスカラ座も、バルコニー席では食事もできましたし、退屈すればバルコニー席の後ろに長椅子を置いた小部屋もありました。

 昔から「人の楽しみ・娯楽」と言うことは何かを我慢しながら何かを楽しむと言う事ではなかったのです。(勿論、それなりのスマートなルールはありましたが。)
私は演芸が芸術という範疇で語られようと、「人の楽しみ・娯楽」を与えるという意味から考えて、道楽者の三つの放蕩のうち、せめて「呑む(食う)」という事と共に演芸、芸能を楽しみたいと考えています。


  【21 SEKAI雑記の16 おわり】
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□20 SEKAI雑記の15
ひこう中年  Juvenile middle
 


 『私はひこう中年でした。』と言うと「実を言うと、私も相当悪だったんだよ。」と言われる方も居られるのでは?
 しかし、今回お話しすることは、「非行」の意味は多少あるもの、主に「飛行」の話です。

 誰しも「鳥の様に空を飛びたい!」と言う夢を持っているのではないでしょうか。私がエジプトで仕事をしていた時、民間の飛行クラブの会員でした。その飛行クラブは、現在のカイロ国際空港が使われる前の古いカイロ空港にあり、会費はなしで、費用は飛行時間1時間当たり30US$だけ。小さな格納庫の前に何人かの中年の男たちが座って話をしており、その中の一人が「今から乗るか?」。講義も脱出訓練も何もなく、出会ったのが、ウルトラ・ライト・プレーン(Ultra light plane超軽量飛行機ULP)でした。

グライダーに小さなエンジンとプロペラを付けた代物で機体重量は300㎏、離陸重量は450㎏程度ですので、オートバイに翼をつけたようなものです。


(写真1:古いタイプのULP。今は翼が機体の上にあるタイプが主流)

 一人乗りと二人乗りがあり、二人乗りは横に二人が並ぶ形式のside-by-sideと前後に並ぶTandemの2つのtypeがあります。私が乗ったのはTandem-typeで、前の席に生徒、後ろの席に教官が乗ります。基本的にはどちらの席からも操縦できます。 操縦席の前には、足の間に挟む位置にスティック(棒)の操縦桿があり、前面には燃料計と油圧計、高度計、速度計、座席の横の床には車輪の上げ下げを手動でするギヤがあります。操縦席を覆うキャノピー(操縦席を覆うプラスチックの天蓋)には空気取り入れ用の手で開け閉めする小さな子窓があります。


(写真2:実に単純なコックピット・フロント)

 シートベルトは、旅客機のアテンダント席にある様な胸の前でクロスするタイプの物で、それだけでも少しプロ的で胸躍る思いですが、ジェット機のパイロットの様にパラシュートも旅客機の様にライフ・ジャケットも何もなし。多少、不安になり教官に聞くと操縦席の背もたれの後ろについている直径20cm、高さ40cm程のアルミ缶を指差した。それがパラシュートで下の紐を引くとキャノピーが外れ、自動的に開くとの事。つまりこのパラシュートは飛行機ごと空中に浮かせる物なのです。

 セルモーターでエンジンを掛け、管制塔に許可を貰いタクシーイングで滑走路に。離陸の許可を貰い、エンジンを吹かして加速して時速90kmを越える辺りで、それまで前に倒していたスティック(操縦桿)を手前に引くとフワッと機体が浮き上がりました。そのまま約1,000mまで上昇し、水平飛行に。ここまでは教官がやってくれましたが突如、操縦してみろと言われ、操縦桿を握りました。

 「前に倒すと下降」、「手前に引くと上昇」、「左右に倒すとそれぞれの方向に曲がる」、ただそれだけを教えてもらい操縦桿を押すと、機体は急激に下降。教官があわてて機体を戻す。そんなことをやったあとで教官いわく『女性の体に接するときのように、やさしく触れ、押し、引いてやるとすぐに反応する』。30US$/時間でこんな楽しさが味わえるのですから、その飛行クラブは教官や会員はすべて中年という理由もうなずけます。(ULPに乗り始めたころは、女房殿にも何故か言いませんでしたが、深層心理的には後ろめたい何かを感じていたのかも。)

 この飛行機ULPは、機体が軽いので上昇気流があると、上空でエンジンを止めてグライダーのように滑空ができます。エンジンを止めると全く音のない世界が生まれます。キャノピーの小窓を開けて手を外に少し出すと、さわやかな外気がコックピットに流れ込んできて、敏感に反応する機体を意のままに動かし、小さな模型のようになった町を見ていると、今まで鎖で地上につなぎとめられていた日常から自由になった気持ちになり、なるほど飛行機に乗るというのはこういうことだったのかと初めて理解しました。 大型ジェット機と違い、この飛行機ULPは空に浮かんで当然という感じがしました。上昇気流の有無には敏感に反応し、ナイル川や畑の上を飛ぶと機体は下降し、砂漠や樹木がほとんどない町の上では、機体は上昇します。


(写真3:クラブのある飛行場の周辺のカイロの街並み)

 飛行機にも弱者保護のルールがあります。一番の優先順位は動力がない、グライダーで順次、大きな飛行機になるに従いその優先順位は下がります。ULPはグライダーの次に優先順位は高いのですが、わがもの顔に飛ぶことはできません。大型のジェット機の後方に発生する乱気流に巻き込まれると、ひとたまりもなく空中分解します。

 さて、何度か乗り、管制塔とのやり取りができるようになるとStudent licenseという仮免が発行されカイロ周辺の決まった空域を飛ぶことができましたし、本当は飛んではいけない空域でしたが空からピラミッド見物もしました。クラブの4台の飛行機でアレキサンドリアを回るツアーもありました。

 その時、使っていたのがTactical Pilotage Chartというた航空地図で、電子制御のジェット機にも搭載されています。この地図には地形などの一般の地図情報以外に軍用、民生用も含め全ての飛行場の位置、滑走路長さ、方向などが記載されています。
飛行機が緊急事態になった場合、どこの飛行場にも着陸ができるという国際ルールがあります。そのためこの地図には民間だけではなく軍隊が所有している飛行場も記載されています。下の地図はカイロ周辺の飛行場の位置が記載されています。


(写真4:カイロ周辺の飛行場を示す航空地図)

 沢山の飛行場が記載されていますが、この地図のカイロからアレキサンドリアに向かう道路の上に飛行場マークがあります。これは道路そのものが緊急時(多分、戦争時)の飛行場となる代替滑走路で、通常は高速道路で使用しており、中央分離帯の部分はコンクリートの分離ブロックが置かれていますが、戦時にはその分離ブロックは片付けられて飛行場に早変わりします。このタイプの飛行場はイスラエルやパキスタンでも見ましたが、周辺には離着陸に障害となる看板や街灯が一切なく、道路もまっすぐですからすぐに判断できます。


(写真5:エジプトの高速道路の代替滑走路)

 さてこの地図には、滑走路長さ3,000feet以上の大型の飛行場(地図上の●)と小規模な飛行場(地図上の○)が記載されていますが、エジプトの場合、近くに行くとすぐに飛行場の位置が確認できます。ところがイスラエルでは近くに行っても滑走路は見えず飛行場があるのか確認できませんが、大部分でドーム型の丘が見えますので戦闘機基地かと判断できます。ドーム型の丘はコンクリートの上に土を被せた戦闘機の格納庫だと聞きました。このドームがない所は、地下に格納庫を設置しているのだと聞きました。


(写真6:イスラエルの飛行場を示す航空地図)

 イスラエルは、周辺をアラブ諸国に囲まれ、国そのものの存在を危うく感じる中で、国際社会から非難があろうと、国連決議も無視し、領土を拡張し、コンクリートの塀を造り、戦闘態勢を構築する事が中東戦争から学んだことなのかもしれません。

 しかし、イスラエルや北朝鮮の様に国際社会を向こうに回しながらも、国の立場を堅持していくというしたたかな外交感覚は素晴らしいものです。

 日本の場合、周りが海ですので防空体制も大切ですが、加えて海の防衛体制が必要になります。海上自衛隊下総航空基地の基地記念日にP3-C対潜哨戒機に乗せてもらったことがありました。機体は米軍からのお下がりで、乗員11人搭乗可能で米軍が使用していた時は控えの乗員様に休憩用のベッドも備わっていますが、自衛隊の場合は半分の乗員で運用しており、ベッドは無用の長物になっていました。(今は日本でライセンス生産されていますので多分、内部は実情に合わせて変わってきているでしょう。)


(写真7:P3-C対潜哨戒機)

 朝6時前に3食のお弁当を持って離陸し、夜遅くに着陸するまで東京以北の太平洋側を飛行し、沢山のソノブイを投下し、音響及び磁気、赤外線探査などを行っていきます。機体の諸元では対潜爆弾、魚雷、対艦大型ミサイルなどの武器も搭載可能との事。機体の内部は沢山のソノブイのラックと情報処理用のコンピューターで占められていました。
 この搭載されているコンピューターの情報システムは、日本が改良を重ね、現在では日本の対潜哨戒機は世界の中で一番性能がいいとされています。

「ひこう中年」と言う気楽な話から国の防衛と言う話まで飛んでしまいましたが、災害派遣だけではなく日夜、その本来の目的の日本の防衛のため努力している人たちがいるという事を忘れてはならないと感じています。


  【20 SEKAI雑記の15 おわり】
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□19 SEKAI雑記の14
人を弔う(とむらう)と言う事について
 


 東日本大震災で亡くなられた方の土葬が新聞で報じられ又、最近、「直葬(ちょくそう)」(臨終後、通夜や葬儀をせずに火葬場で見送る形式の葬儀)や千の風にのって「散骨」する等、新しい弔いの形が話題に成っています。また、国際テロ組織指導者のオサマ・ビンラディン容疑者の遺体が水葬され、イスラム教の弔い儀式と違うと言う事も話題に成りました。この稿では、人を弔う形や意味についてお話ししたいと思います。  
 
 尚、この稿では、弔いに関連する様々な事を浅薄な知識で書いておりますが、これは私が海外の様々な国を廻った時に見聞きした物を纏めたもので学術的に調べた物ではありませんのでその点をお断りしておきます。

 お葬式の方法は、その国の風土や昔からのしきたり、宗教などを反映して様々です。 日本では亡くなったその夜に「通夜」を行います。この「通夜」と言うのは、殯(もがり)の風習の残りと言われています。殯は古代に行われていた貴人を本葬前に仮に祀る葬式儀礼で長い間、仮安置する事で遺体の腐敗、白骨化の変化から死を確認すると言う意味がありました。古代の日本や韓国では1年、時には3年以上も殯の儀礼が続いた事があったそうです。 殯や通夜と言う風習は、仏教だけではなく、神道やキリスト教でも似たような儀式があり、亡くなった人との別れの時を大切に思う人の気持ちから自然に生まれたのでしょう。

 昔、インドネシアのジャワ島などでは石を井桁に積んだ石室に遺体を安置し、鳥や昆虫、腐敗菌などにより白骨化させ、1年後に親戚一同が集まり、残った骨を川で洗い清め、壺に入れて石室の下にある墓に納めると言う「洗骨」の風習がありました。この風習は、海洋民族であるインドネシア人の広範囲な移動に伴いマダガスカル島や沖縄まで広がっていました。沖縄の古いお墓は、納骨をする部屋の前に広い場所があり、古くはここに遺体を安置し、殯から洗骨までの儀式を行っていたそうです。


写真1 インドネシアの大規模な墓、殯の儀式が行われた

 「火葬」と言う新しい弔いの形が出来て、殯や洗骨と言う風習も無くなっています。現在、インドネシアでも火葬が一般的になり、高温多湿の気候の中で腐敗を防ぎ衛生面に配慮し『人が死去するとその日の太陽が沈む前に火葬する』と言うように風習が変化してきています。火葬は沢山の薪や燃えにくい遺体を燃やすと言う技術が必要で、日本ではこの風習は、近代まで一般的ではありませんでした。しかし、仏教の経典の中に『喜見菩薩は、法華経と如来を供養するためにご自身の身を捧げようと決意し、体に火をつけて1200年燃えつづけた。』との記述があり仏教徒の間では火葬の風習は根付きました。

 明治政府は明治6年(1873年)に神仏分離令に関連して火葬禁止令を布告しましたが、仏教徒からの反発と衛生面の問題から2年後の明治8年にこの火葬禁止令を廃止しています。

 最近、弔うと言う事に対しても時代の流れで、火葬で消費される多量のエネルギーや排出される二酸化炭素、或いは土葬の為の土地の不足が問題になり、全く新しい弔いの方法が報じられ、すでに幾つかの国では承認されているそうです。

 一つは「フリーズドライ方法」です。遺体を液体窒素で-196℃まで冷やしその後、粉々に粉砕すると言う方法で、既に英国やスエーデン、韓国、米国の一部の州で承認されているとの事。次の方法は遺体を絹布で包み、160℃に熱したアルカリ性溶液の中に沈め全て溶かしてしまうと言う方法です。何か異次元の話のようで、そこまでやるのかと言う言葉が出てきますが、土葬から火葬へと弔いの方法が変化した時、遺体を燃やすと言う事に対して同じような感覚を我々の先祖は持ったのかもしれません。

 東北地方の葬列のシーンが映画「おくりびと」の中で出てきますが、色とりどりの細長い布の旗指物が行列を彩っていました。この色とりどりの布は、エジプト、ネパール、パキスタンでも見られます。この布は、日本では見られなくなりましたが、色々な国では魔除けとしてお墓の廻りの木に、布が朽ちるまで下がっています。只、日本のお寺が何か行事をするときに、軒下に飾る布の様々な配色はこれとそっくりです。

 インドネシアの葬列では、同伴するのは男性だけで、女性は娘のみが許され、なぜか妻は許されません。同じイスラム教の国であってもエジプトでは遺体に多くの女性が、時には泣き女が雇われ、泣き叫びながら行列に墓地(エジプトでは土葬) まで同伴します。イスラム教の場合、通常、女性は、亡くなった方が彼女の夫であっても遺体に面会することはできないとされていますがしかし、最近、時にはこのルールは無視されるように成っています。

 お墓も設ける国と無い国があります。インド、インドネシアやヒンドゥー教では火葬した後、遺灰や遺骨を川や海に流し、或いは遺体をガンジス川に流し墓を設けません。かってキリスト教でも遺体を教会の内部に収め、最後の審判の後に復活する時を待ち、墓は設けませんでした。

 昔、日本では両墓制をとっている地方がありました。人里から離れた所に遺体を埋める「埋め墓(葬地)」と、人の住む所から近い所に「参り墓」を建て、お参り、祭祀はそこですると言う方式です。只、江戸時代辺りまでは土葬、火葬に限らず墓石、石塔は建立されなかったと言われています。

 お墓の形や墓標も国によって様々な形があります。あまり石を加工していない素朴な墓から高度な加工技術を駆使した墓まで様々です。下の写真はボスニア・ヘルツェゴビナの古い時代の墓ですが、これは北欧で活躍していたバイキングの墓の形だそうです。インドネシア民族と同様に海洋民族のお墓の形は、広く世界に広がっています。オランダも古くはインドネシアにコロニーを造り、今でもその足跡をお墓の形に見る事が出来ます。


写真2 ボスニア・ヘルツェゴビナの古い時代の墓


写真3 インドネシアのスマトラ島の近くのシムルー島の古い墓

1992年から1995年まで続いたボスニア・ヘルツェゴビナ紛争では、多くの人が亡くなりお墓の面積が3倍に成ったと言われていますが、その墓地の中を歩くと全く暗さを感じません。様々な墓標には、亡くなった方の写真が墓標に刻まれていますから、どんな人が埋葬されているのかは一目瞭然です。しかし、人間死しても見栄があるのか、墓標の写真と死亡した人の年齢が異なり、男女含めて若い素敵な写真が多いようです。


写真4-1 写真入り墓碑が並ぶボスニアの墓地


写真4-2 ボスニアの写真入り墓碑

お墓に様々な花を供えると言うのは、日本も他の国も同じです。日本の花の生産の7割が菊と言われていますが、その需要を支えるのが葬式や仏壇に供える花です。墓参りでも今では洋花が広く使われますが、昔はその季節の花が添えられました。日本のお墓では、花立やお線香立てなどお墓参りに配慮した設計に成っていますが、海外の場合、花立があるお墓はそれほど多くありません。

ボスニア・ヘルツェゴビナでの墓地の前には花屋が必ずあって、華やかな色とりどりの花が店先を鮮やかに彩っています。しかし、これが全て造花。生花は全く置いていません。


写真5 ボスニア・ヘルツェゴビナの墓地の前のお花屋さん

 土葬の場合は、個々人のお墓で謂わば個室ですが、日本のお墓は大部分がその家のお墓で、共同住宅の様な意味を持っています。その為、土葬の場合のお墓参りは個人の命日や、誕生日などの特定の日にお墓参りをする事に成ります。それに対して日本のお墓のようにそれぞれの家、家系と結びついているとお墓参りをお盆やお彼岸などの決まった時にするようになります。
 沖縄では毎年4月にシーミー(清明祭)と言う墓参りの行事があり、家族、親戚が料理、お酒を持ち墓参りをします。この行事は、昔の洗骨の儀式の名残だと言われています。 海外の人に聞いてみると、イスラム教の場合、家族でも個人でもお墓参りに行くという習慣は無いそうです。インドネシアのクリスチャンの場合は、死後3日目、7日目、40日目とクリスマスとイースターにお墓参りをするそうです。


  【19 SEKAI雑記の14 おわり】
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□18 SEKAI雑記の13
  イスラム教の多様性 ーラマダン編ー
 


 今年も8月1日から8月22日までイスラム諸国ではラマダン(断食期間)に入ります。

 多くの人は、世界に広がっているイスラム教をどこの国でも変わらない単一で普遍の思想と考えているのではないでしょうか。確かに信じているコーランと言う聖典は同じですが国によって、人々の生活の中に現れるものは、全く異なります。そんな生活の中に現れるイスラム教についてお話いたします。

 生活の話に入る前に、現在のイスラム教の大きな流れについて少しお話いたします。

 現在、インターネットと言う新しい通信手段によって北アフリカ、中近東のイスラム諸国では政治的に大きく変動し、今までの経験則では先が読めない状況が生まれています。又、9.11テロ以降、残念なことにサミュエル・ハンチントンの「文明の衝突」が現実味を帯び、宗教間の対立のニュースが世界を駆け巡る様に成っています。特にキリスト教とイスラム教の間では、人口・移民問題や「近代化、脱西欧化」やナショナリズムの問題を含み、感情的な衝突が報道されています。最近、平和で安全と思われていたノルウェーで発生した連続テロ事件でも『反イスラム』の文書が犯人から出ていたとの報道がありました。現在、多くのイスラム諸国の経済的発展により、コーランの教えの一つである喜捨により集まった使い道が特定されない莫大なお金が世界を掛け周り、世界連邦の様な考え方も生まれています。

 今、この様な大きなイスラム諸国のうねりについては、その背後にうごめく大国の意図を含め、最近出版された「革命と独裁のアラブ」(ダイヤモンド社、佐々木良昭著)でグローバルな視点から詳しく述べられていますので是非一読されることをお勧めします。

 私はNPO日本イスラム連盟と言う団体で、イスラム諸国と言う一般の方々の理解から遠い国々と日本とを繋げる活動をしております。イスラム諸国の大きなうねりについてご興味がある方は是非、このNPO日本イスラム連盟のホームページ(http://jisl.org)の最新トピック欄を覗いてみてください。殆ど毎日、最新情報とその分析をお届けしています。

 さて、ラマダンですがその正確な開始日や終わる日は、イスラム教の高僧が月を見て判断するので国により前後します。ラマダンは言ってみれば日本のお盆のようなもので、遠くの親戚や知人たちが夜毎、集まり飲んだり(アルコール類はありません。)食べたり。どのイスラム教国でも砂糖、肉を含め全ての食品の消費量が2倍から3倍に跳ね上がります。エジプトでは砂糖の消費がこの時期に6倍に成ると報道されていました。殆どのイスラム教徒は、この夜毎の宴会を待ち焦がれ昼間の断食に耐えているのでしょう。特に子供たちは夜遅くまで遊べますし、お小遣いや新しい洋服を着せて貰って大喜びです。テレビ番組もラマダン期間は特別編成の番組を組み、夜通し番組を流しています。

 兎に角、ラマダンと言うのは1カ月続く一種のお祭りの前夜祭みたいなものです。このラマダンが終わりますと、国によって多少異なりますが、1週間から10日間の休日が続きます。公式にはこのお休みは3日間ですが、多くの人がこの時期に纏めてお休みを取ります。

 しかし、このラマダン期間の職場は、寝不足の集団で生産性も大幅に下がります。これが建設現場のような職場では大変な状況が生じます。夜毎の宴会で疲れ果て、睡眠不足で現場のちょっとした物陰には居眠りする労務者がごろごろ、うっかりすると躓くことにもなりかねません。企業によって異なりますが、建設現場の勤務時間は朝の6時から昼過ぎの1時までで、勿論昼休みも昼食時間もありません。

 建設現場のように時間に追われる職場では、午後1時から夕方のイフタール(日没時の食事)の後のお祈り時間まで休み、それから仕事を再開し午前2時位まで作業を行うと言う特別作業時間が組まれ、何とか現場の遅れが出ないようにしています。

 朝、陽が昇ってから沈むまで飲まず食わずですから、誰しもその日が沈んで食事をして良いと言う合図を待ち受けています。ですからこのイフタール前に車に乗るのは実に危険です。誰しもイフタールの時刻に間に合わせようと、スピードを出して帰宅を急ぎます。このラマダン時期にイスラム諸国に居ると何度も、車の運転手に『ラマダン期間に毎年30回近くもあるイフタールとお前の命とどちらが大切なんだ』と文句を言わなくてはなりません。


(写真:ラマダンの時の街の中の祈り)

 イフタールと言うのは、日没後の何時でも食べれると言う食事ではありません。日没時に食べる事が原則です。ですから外出時にもどこでも食べられるようなSystemが出来あがっています。

 エジプトの場合、喜捨の精神が行き渡っているのか、裕福なのか理由は分かりませんが、街の中のいろいろな所に100人以上が一緒に食事ができる位の沢山のテーブルが路上に並べられ、誰でもがイフタールの食事を取ることが出来るようになっていました。私も何度かその路上のイフタールをいただいたことがありますが、イスラム教徒でなくても外国人であっても問題なく、食事が出来ます。

 Pakistanでは貧しいせいか、首都イスラマバードでもそんなテーブルは出ていませんでした。ただ、田舎の幹線道路に沿った村では小さな規模でテーブルが出ており、イフタールが取れました。パキスタンでは、殆どがモスク内でイフタールが取れるようになっていました。

 兎に角、Ramadanはアラーに対してそれぞれの信仰の念を伝える期間ですから、昼間の水や食べ物から、夜の欲望まで全て控えて、その信仰の念をアラーに伝えます。エジプトの女性達は概してクレオパトラ並に化粧は非常に濃いのが普通です。(実際にクレオパトラを見たわけではなく、エリザベステーラーのクレオパトラからの印象です。)

 私の事務所の女性達も飾ると言う欲望を抑えてRamadanのときは全くのすっぴん。朝、会った時は一瞬別人かと思い、それから病気なのと聞いたほどにその変化は劇的でした。


(写真:エジプトのラマダンの時でない女性)

 私がPakistanで仕事をしていた所は、バルチスタン州(以前は北西辺境州と言いました。)のBattagramと言う片田舎の町ですが、通常と違い八百屋やお菓子屋の前にはデーツ(ナツメヤシの実でラマダンの時に必ず食べる物)が山のように盛り上げて売っており、食べ物屋と言う食べ物屋には溢れるほど食料品が山積みになっています。ラマダンのときに人口が飛躍的に増加するわけでもなく、一人当たりの食物摂取量が何倍にもなるわけではありませんので、山のように盛り上げた食料品は最終的には生ごみとなって廃棄されます。

 私がエジプトで生活していた時、ザバリンというごみ収集の人たちの村の再開発を手伝ったことが有りました。その時、ラマダンの時は、豚のえさとしては処理しきれないくらいの生ごみが出ると言っておりました。

 信仰と言うのは常にある面での何かの犠牲或いは無駄と言うものを要求しますが、ラマダンが始まると色々と地球と言う単位でも考えさせられます。


(写真:ラマダン明けの日の街中の喧騒)

ラ マダンはイスラム暦の9月を指しますが、イスラム暦は1年が354日間で太陽暦の365日より11日短い暦です。その為、毎年11日ずつ始まりが早くなります。冬至に近い季節のラマダンは日の出から日没までは短いので、この季節のラマダンは楽です。しかし、今年のように夏至に近い時期のラマダンは断食時間が長く大変です。私もエジプトに住んでいた時、イスラム教徒ではありませんが断食をした事がありました。水を飲まない為、慣れる迄の1週間ほどの期間は頭痛に悩まされます。

 もし、周りにイスラム教の方がおられたら、神への帰依と言う行為をしていると言う事へのご理解をお願いいたします。




  【18 SEKAI雑記の13 おわり】
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□17 SEKAI雑記の12 神輿作成騒動記  


 文化のガラパゴス現象と言う言葉をご存知でしょうか。これは、文化は発祥した所から遠く離れた辺境の地では純粋な形で残ると言う意味です。ローマ時代に使われていたラテン語は、ローマの覇権の拡張と共にヨーロッパの広い地域に広まり、キリスト教の教義を語る言葉として使われましたが、ドイツのラテン語はイタリアで使われるラテン語に比べ、より古い形で残っているそうです。日本語を話すブラジルの人の中に、素晴らしく綺麗で丁寧な日本語を話す人がいますがこれも戦後、ブラジルに移民した人々が残した日本語文化を純粋な形で継承した結果なのでしょう。

 故国から遠く離れて生活する人々は、そのDNAに刷り込まれた故郷の文化を懐かしみながら再現しようとします。ここで話しする事は、エジプトと言う日本から遠く離れた地で日本の祭りを懐かしみ、神輿を作成したと言う文化のガラパゴス現象の一つの記録です。


写真1:エジプトの日本の祭

[発端・獅子頭から神輿に]
 私が日本の建設会社のエジプト支店に勤めていた時の事です。エジプト日本人会では、正月に獅子舞を披露していましたが、その獅子頭は貧相な段ボール製。同僚と「あの獅子頭、何とかならないかね? 伝統工芸品だから多分、二百万円位はする。写真で撮ってくれば、木を加工して出来るかも!」と言うのが神輿製作の発端でした。

 日本に出張した際、浅草の創業文久元年、宮内庁御用達と言う店を訪ねると、在るわ!在るわ!大小様々な獅子頭の行列。(この時始めて獅子頭に雌雄が在るのを知りました。) 値段はと見れば、確かに頭に15とか20とかの数字の後に、ゼロが並んでおり、想像通りかと思いながらスパイもどきに隠し撮り。(この店内は全て撮影禁止)

 隠し撮りも終って横に並んでいる神輿の値段を見ると、大体1500万円から4000万円。店を出る前、見納めにともう一度、獅子頭の値段を見ると神輿より二つもゼロが少ない。それではと勇んで購入し、これで獅子頭の件は一件落着。さて、獅子頭を作る必要が無くなるとがぜんほしくなるのが神輿。これは何度見ても値段のゼロは減らない。

[資料集め・プラモデルと実物調査]
 その後、獅子頭を収めた箱を抱えて浅草の松屋デパートのおもちゃ売り場に一直線。そこで8000円也の神輿のプラモデルを購入。(これを元に神輿を作ろうと言う大胆な発想。) さてエジプトでこのプラモを前にして、寺社建築の経験が全くない日本人の大工さんとコンクリートしか知らない建築技術者で侃々諤々。そして「何とか作れるんじゃないの。」と大胆不敵な結論。しかし、大胆とは言えプラモだけでは何とも心細い。そこで大工さんが日本へ一時帰国の際、氏の郷里の日田市の山の奥の奥に在る由緒ある大原神社の神輿を調査。渋る宮司を説得し、寸法を取り、写真撮影。さて、これで何とか資料は集まり制作開始。

[制作方針・日本の技術移転]
 先の浅草の老舗には神輿の部品と言う部品、全て売っているが、それを買っていたのでは直ぐにウン百万円になってしまう。大企業とは言え地の果ての末端組織でそんなことに金を出しては首が飛ぶ。 そこで考えたのがOJT(オンザジョブトレーニン)。全て現地生産し、エジプトの大工さんに伝統的な木造建築のノウハウと日本的な道具の使用方法、日本的な金物の細工について教えるという理由付けをして制作開始。

[木工事]
 日本人の大工さんの下にエジプ人大工さんを5名配置し、材料は台輪と羽目板部分にスエーデン産の松材を使い他は全てエジプト産ブナ材を使用した。

 まず、プラモと実測資料を元に日本人の大工さんが部品を一つ作り、それをエジプト人大工さんが作成すると言うステップで造って行った。屋根の出を支える枡組み、垂木の部品だけでも200以上もある。2月に着工以来5か月間掛って木工事が完成。次ぎは塗装工事。

[塗装工事]
 神輿はとにかく派手がいい。金ぴかで、赤や茶が在ったり、螺鈿があったり。勝手にイメージしていたが調べるとやはり原則は在った。

 本来、神輿の色は枡組から屋根に掛けては大体金色に塗装され、屋根は黒漆か茶系統の螺細塗装されるのが普通。しかし、エジプトでは螺鈿も漆もなく、まして細かい枡組の部分などで塗り分けを要求したら折角、作った神輿を台無しにされる。結局、以前担いだ事があるカラス神輿に似せ鳥居、欄干以外は全く真っ黒に塗装する事に決定。塗料は何とか漆の感じに見え、長期の耐候性、耐水性を考えウレタン塗料4回塗りとした。下地、塗装、水研ぎの工程を繰り返し塗装工程の完了。

[プロポーション]
 さて、この塗装工事が完了した時点で神輿を見ると驚いた。「誰だ!仏壇を作った奴は!」と叫びたくなった。神様がおられる社(やしろ)ではなく、仏様が鎮座まします厨子なのだ。

 最近の神輿は本来の機能性から離れて一種の装飾品となっており、お堂の平面寸法に対し屋根の先端でクルッと丸まっている蕨手(わらびて)から蕨手までの屋根寸法は約五倍位あり、人間の体型で言えば胸が大きく腰の部分でキュッとしまっているグラマーな女性タイプ。

 それに比べ我々が参考にした神輿は、約350年の歴史がある神輿。そんな古い時代の神輿はより現実的で且つ、団地サイズの4.5畳より八畳間提供するだけの経済的な余裕もある。また、そんな時代にグラマーな女性がいるはずもなくまあ、胴長女房で我慢しようと言う事で一件落着。


写真2:グラマーで派手な現代的な神輿

[金物工事・高所恐怖症の鳳凰]
 次ぎは金物工事。これは塗装工事以上に説明に困難。鳳凰、瓔珞、長押金物、屋根紋等々。まず日本語を英語に訳す時から困難で、ましてそれをアラビア語に翻訳するとなると全く不可能。兎に角、写真とプラモで説明し金物製作会社に発注。

 日本であれば銅版の薄板を加工し、金鍍金するがエジプトではそのような事をしてくれる所もなく結局、真鍮板の薄板を打って加工する事に成った。真鍮板は固いので打ってもなかなか曲線が出ず鳳凰の胴はやせ細り、その羽は高所恐怖症で突っ張り、上下に揺らしても羽は固まったまま。これも諦念と言う解決策で一件落着。

[飾り付け]
 神輿にはその屋根の天辺から担ぎ棒まで太い飾り紐が張られている。その全長9.5mの紐を、組み紐器を使って作ろうと考え、デパートの手芸コーナーに行ったが直径3㎝の紐を造るのは無理と判り、これは購入。ついでに扉の前に付ける鏡と鈴、紐飾りなどを購入し、飾り物も一件落着。神輿の上に付ける駒札の文字を東京にいるPOPの専門家に新勘亭文字で書いてもらい、それを年賀状の版画よろしく彫刻刀で彫りエナメルを流し込んで駒札も完成。

[お札・神様の海外出張]
 神輿は神様の乗り物ですから担ぐ前に、ご神体または御霊代に代わる御札を収めなければならない。東京に出張した際、神田明神に行き、お札を貰おうとしたがこれがなかなかの難しさ。神輿にお札を収める際に、神様が輿にお移りになる儀式が必要との事。

 神輿をもって来れないか?(地球半周どうやって担いでくるんか?)、神社は無いのか?(有ればこんなとこまでくるか。モスクは有るがいいのか?)等々。お札所では話が付かず社務所で侃々謂々。結局、「お札を長い間神輿の中に入れた儘にしないこと。」「祭りが終わったら御札は燃やす事。」「担ぐ前に毎回お札を貰いにくること。」などの条件が付いてやっとお札を貰った。しかし、今のグローバル化の世の中、神様も海外出張に対してもう少しフレキシブルでないと世の中に遅れるのではないかと思った次第。

[完成・家鴨から白鳥に変身]
 綱を張り、駒札を付け、鈴を付け、鏡を飾り…すると、ああ!何と!!あひるが白鳥に変わったではないか!もう、目の前にあるのは胴太の仏壇ではなく力強い神輿その物。今は神輿の上の鳳凰も高所での恐怖心も薄れ心なしか強くはばたいて見える。 この神輿は今もエジプトにある日本大使館の領事部のロビーを飾っている。


写真3:完成した神輿



  【17 SEKAI雑記の12 おわり】





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□16 SEKAI雑記の11 オペラ劇場 


 昨年、『オペラ連盟が文化庁からの支援金を水増し』、『景気の影響で海外オペラや音楽の来日公演は、2008年比で1/3以下減少』など芸術オペラとは違う面のニュースが流れましたが、今回はオペラ劇場に纏わる芸術には余り関係のないお話しをしましょう。

[オペラ劇場と政治の世界]
 昔の事ですが、私が建設会社の技術者だった時、エジプトでオペラ劇場を建てた事があります(1988年落成式)。このオペラ劇場は、日本からエジプトへの贈り物として建てられました。

 エジプトは、スエズ運河の開通記念式典(1869年)に招いた多くのヨーロッパの王侯貴族を歓待する為にオペラ劇場を造りました。このバレー、演奏、声楽に演技が加わったオペラと言う複合芸術の場は、エジプトの音楽レベルを高い水準にしましたが、残念な事に1971年に焼失してしまい、育った芸術家たちはヨーロッパに散って行きました。

 そこで日本からの贈り物のオペラ劇場です。日本・エジプトの友好強化、教育水準向上などODAとして色々な理由はありましたがその当時、日本にはオペラ劇場は無く、日本の国会では「自国にもないものを贈るとは!」と言う事で紛糾しました。しかし、ヨーロッパの諸国は、オペラ劇場をプレゼントしたと言う事で日本の文化度を高く評価し、エジプトでも記念切手や絵葉書が多数発行されました。因みにその時に日本側がつけたプロジェクト名は「エジプト教育文化センター」と言う隠れ蓑的な名前でしたが。この時の駐エジプト日本大使は、バレーの筋書きの作家で大のオペラファンだったとの話も聞きました。


写真1:日本で寄贈したオペラハウスを記念して発行された絵葉書


写真2:日本の寄贈したオペラハウスの記念切手及びシート

 さて、私はこのオペラ劇場建設の際に、劇場設計、音響、照明、舞台装置など其々の専門家の方々と、ヨーロッパ諸国のオペラ劇場の調査を行いました。昼は調査、夜はオペラ、レヴューを見て、見終わると舞台比較論に明け暮れる毎日で、実にハードな業務出張でしたが夢のような素晴らしい時間を過ごしました。

[オペラ劇場とエンターテイメント]
 ガルニエ宮と呼ばれるパリの国立オペラ劇場(1874年完成)は、馬蹄形のパーケット席(平土間席)をとりか組むように5人程度が座れるBox席があります。このBox席には胸に仰々しく勲章を下げフロックコートを着た厳めしい感じの担当サービス係がいますが、なかなか物を頼めると言う雰囲気ではなく、ある時、このBox席で私は全く面識のない同席の4人の女性の為に幕間に、飲み物をサーブするのに大汗をかいた事がありました。

 馬蹄形にカーブしている廊下の内径側にはBox席そして、外径側にはそれぞれのBox席専用の着替え用小部屋があります。Box席への扉を開けると片側に長椅子が置いてある小さな前室があり、其の奥の分厚いカーテンの先がBox席です。オペラがつまらなくなったら何時でも後ろのスペースでごろ寝が出来る、そんな空間がBox席にはあるのです。ヴェルディのオペラ「椿姫」の主役の女性のヴィオレッタはそんな華やかな空間を舞台にした職業婦人だったと言われています。


写真3:ガルニエ宮パリ国立オペラハウス

Opera・du・operaと言うオペレッタの舞台背景では、この廊下側から見たBox席の扉が並んでおり、そこで起こる男女の密会の話ですが、このオペレッタの中で銀の器をもったボーイがBox席に出入りしていました。つまりオペラ劇場と言うのは、「聞く、見る、飲む、食べる、買う」と言う総合エンターテイメントの世界でした。

[オペラ劇場と下請制度]
 丁度、ヨーロッパのオペラ隆盛と時を同じくして日本でも勧進帳の初演が1840年、歌舞伎十八番の制定など歌舞伎も隆盛期を迎え、芝居見物は庶民にとって大きな楽しみでした。江戸には幕府認可の江戸4座だけではなく「宮地芝居」の小屋掛け芝居小屋が沢山あり、芝居演目で使う鬘(かつら)、衣装、舞台装置、舞台小物は下請けが製作していました。所がヨーロッパの芝居Systemでは、下請制度が無く、当時からオペラ劇場には衣装制作の為のお針子の部屋から小道具、大道具製作室、はては布を染色する部門まであり、現在も使われています。これは、オペラ劇場は当時の為政者であった王侯貴族が開設した謂わば官制劇場であり、日本の芝居小屋は民間の起業家によって建てられたと言う違いによるものです。この下請制度は民間企業のスリム化、リスク分散、専門業者による高度技術化が図られた結果で、これも日本の近代化の一つの支えに成ったと言えます。

[オペラ劇場と上演形式]
 オペラの面白さは、その内容だけではなく劇場の上演形式や、劇場の広さ、演目による舞台背景などにより大きく影響を受けます。先に述べたガルニエ宮やミラノのスカラ座などのオペラ劇場では色々な演目を日替わり公演するレパートリー制と言う興行システムを採っています。歌舞伎座や宝塚劇場が同じシステムです。ロングラン公演の場合、一つの公演用の舞台装置、背景しかいりませんが、レパートリー制の劇場の場合は上演する演目数分を用意する必要があります。ミラノのスカラ座の場合は、サイド・ステージが無い為、色々な舞台装置、背景がバックステージに林立している状態です。

 これに対して新しくパリに出来たオペラ・バスチーユ(1989年完成)は、バックやサイドの舞台に加えてそれぞれの舞台の地下にの舞台があり合計で9面の舞台で、主舞台をそっくりそのまま舞台転換できます。背景を置いておく舞台の数が多ければ、幕間の時間も短くなりますし、演出家は大きな舞台装置、背景を自由に構想出来ます。ベニスのフィニーチェ劇場やウィーンのフォルクスオパーなどの小さな劇場では舞台転換で、40分以上待たされた事がありました。ヨーロッパのオペラ劇場では夕食時の幕間が1時間半位あり、観客は劇場の外のレストランに食事に行き、舞台の上では大きな舞台転換の作業をしています。

[オペラ劇場と舞台背景]
 この舞台背景となる大道具の製作や設置には、どの劇場も独特のSystemを持っています。プラハの国立オペラ劇場(1888年完成)は、第二次世界大戦の際に破壊されましたが、新築当時以上の華麗なオペラ劇場として再建され毎年20以上の演目を200回以上公演しています。ヨーロッパでこの劇場ほど昔の劇場の姿を美しく留めながら、オペラや演劇を機能的に上演できる劇場は無いと言われています。再建の際にオペラ劇場の古い姿を其の儘に保持しながらレパートリー劇場として機能強化を図りました。

 このオペラ劇場の周辺に近代的な3つのビルを建築し、地下で結んで大道具、小道具の製作部門を移し、これの移動に特殊なトロッコシステムを導入しました。加えてこれらの3つのビルには演劇、バレー、演奏などの練習場、演劇劇場、音楽関係の協会など舞台芸術に関係する全てのSystemが収まっています。チェコの舞台芸術のレベルの高さはこんな施設によっているのでしょう。 日本のオペラ劇場としては4面舞台を持つ新国立劇場が挙げられます。此処もレパートリー劇場を目指しているそうですが、今後どのような展開に成るのか楽しみです。

 下の写真は、イタリアのヴィツェンツァ(Vicenza)にある世界最古の木造オペラハウスと言われるオリンピコ劇場(Theatro Olimpico 1584年完成)です。この劇場には慶長年間1615年にローマ法王謁見の前に支倉常長がこの劇場を訪ねており、劇場ホールにその記念プレートがあります。この劇場の舞台背景は街並み或いは豪華な室内とも見える固定背景です。古代ローマ劇場を模して造られたとい言われていますが、この固定背景の意匠が客席まで続いて一体感を表しています。固定背景の場合、演目は限られますがこの劇場ではモーツアルトの「魔笛」や、ロッシーニの「アルジェのイタリア女」など意外に思うような演目も演じられ、各種の室内楽演奏にも使われています。しかし、此処の舞台背景は究極の背景と言えます。

 ヴィツェンツァはルネッサンス期の建築が沢山残されており、建築美術館と言えます。一度は訪問して素晴らしい建築群をお楽しみされるようにお勧めします。


写真4: オリンピコ劇場


  【16 SEKAI雑記の11 おわり】





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